異例の御宮祭典


慶応元年(1865)4月17日、東照公第250回忌の祭典が日光東照宮で執り行われた。
この場合は世良田東照宮に於いては、一ヶ月前の3月17日の祭典となる。
しかし今回の回忌祭典は、それまでの祭典は異なりより厳重な警備が強いられていたようである。
その原因は、水戸の天狗党が東照宮前を通行するといった事件が起こったためである。

元治元年(1864)11月11日に水戸の天狗党が太田に入り、13日に太田を出て木崎宿へ入る。一行は例弊使街道通行を変更し、中江田(太田市新田中江田町)から世良田(太田市世良田町)を通り、平塚河岸(伊勢崎市境平塚町)へと通行することとなる。幕府は、近隣の伊勢崎藩北爪金三郎に東照宮警護を命じた。各通行予定地にも藩が警備に入っていたことは言うまでもない。
一向は無事通行。東照宮への被害は何事も無かったたようである。

この一件で、世相の不穏から御宮祭典が異例な警備体制となったのであった。

○ 元治2年(1865)3月13日、東照宮祭典に備え、岩松家から派遣された藤生友之助や広瀬敬之助の両取締役のもと、三仏堂北西の所に警備詰所建設の工事が雨のなか開始。
               
○ 元治2年(1865)3月14日、夕方、詰所完成。取締役、警備に要する武具や諸道具を運び込むよう命ずる。

○ 元治2年(1865)3月15日、早朝から弓・槍・鉄砲など用意。取締役の広瀬、伊勢崎藩の詰所に出頭し、指揮者の目代菊池武貞と会見。両者が協力し東照宮の警備をこれまで以上に厳しくしていくことを論議。

○ 元治2年(1865)3月16日、岩松満次郎の指示のもと、番頭(関根高之助・田中司)、番目付(金井肇・広瀬伝)、添番(藤生元太郎・茂木吉之進)、徒士(登沢恒吉・近藤庄吉・倉上源次郎・小暮銀蔵)、足軽4人と6人の仲間など合わせて20人の隊員が詰所に出勤。
            
○ 元治2年(1865)3月17日、世良田東照宮、東照公第二百五十回忌につき1ヵ月前の祭典。岩松満次郎の名代として、家臣の畑織之輔が若党と草履取りを従えて金二〇〇疋を東照宮へ奉納。


と、一部抜粋して記してみましたが、鉄砲までもが用意されるなど武装した者の厳重な警備の中の祭典が行われたのでした。
この時の「元治2年世良田東照宮 御神忌中御護衛に付き、取扱一件帳」が群馬大学付属図書館に所蔵されている。
2007年07月28日(土) No.16 (ものしり知識)

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