ものしり知識

関東取締役


関東取締役は、文化2年(1805年)6月に勘定奉行配下の役職として小領主や飛び地などが多い関八州の諸大名・旗本・寺社領等、また天領をも区別なく巡回し、治安維持や犯罪の取り締まりを行う役として設置された。 
武蔵・相模・上野・下野・常陸・上総・下総・安房の八州を巡察、取り締りと逮捕の権力を一手に担当する言わば移動警察である。
身分は足軽格という比較的下層であるにも関わらず、駕籠を乗り大勢の従者を連れて廻村するなど弊害もあったようである。

当地方で有名な国定忠治も、博徒の島村伊三郎や玉村の主馬、関東取締出役目明しの三室勘助などを殺害したことにより関東取締役から一斉手配を受け捕縛されている。

当宮に於いての関東取締役に関する記述があるので紹介する。

● 文化10年(1813)6月21日、関東取締役の岩鼻代官山口鉄五郎ほか12人が世良田東照宮修復の見分に来る。
● 文化10年(1813)7月 1日、関東取締役が御宮見分終えて帰る。

この時は、再三に渡り寺社奉行へ世良田東照宮修復願書を提出しており、翌年には修繕料銀150枚が下賜され小修復がなされている。

● 天保12年(1841)9月、下田中村(現 太田市新田下田中町)、関東取締役の囚人番申付役の仰せ付けがあったが、世良田東照宮の勤番があるため、免除の計らいを別当寺院代へ願う。

下田中村は、御宮の火の番を勤める一村であった。これらの村々は、幕府から命じられる宿場への人馬の供出が免除される待遇にあったため、同様に関東取締役の申付け断わりを願ったというものである。

● 慶応2年(1866)11月、関東取締役が廻村。世良田村の定右衛門が鶴吉という者を使い、東照宮御神酒造を無株の酒造したことが発覚。「御宮御神酒造」の書付を提示したが没収。酒造諸道具は村役人立会いの上封印され、役人預かりとなる。翌年、岩鼻代官所より焼却の沙汰あり処分。

この世良田東照宮御神酒造の一件は、弘化3年(1846)に別当寺が御宮御神酒造として神領百姓の房次郎に酒造を依頼。それから8年間に渡り醸造し、房次郎が欠け落ちしたため親戚の定右衛門が鶴吉という者を使い酒造操業を行っていたというものである。
しかし、同年の別当寺の願書には「御神酒造は、弘化三年時、寺社奉行久世雲守様へ届け、許可書も下され御神酒を献納してきた」とも見え、御神酒名目での違法な酒造を行っていたとも考えられる。
2007年09月01日(土) No.25 (ものしり知識)

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