テレビ放映


   


日本テレビ毎週月曜〜金曜日8時00分〜9時54分放送の『爽快情報バラエティー スッキリ!! 』のコーナーである『となりのマンマミーア』(6月26日) に当宮が放送されました。
グッチ祐三さんのご来宮により収録され、祐三さんからは「世良田東照宮の世界遺産認定」を頂きました(笑)

毎年1月5日の『御釿始め式』http://www.net-you.com/toshogu/saiji1.htmlは、各局により報道番組等で全国に放映されておりますが、その他にも年に数回は民放各局の番組に取り上げられております。

現在、撮影を終えて放送待ちの番組や取材予定の番組もあり、どこまでお伝えして良いものかと判断に苦しむところでございます。
まずは明後日9月17日(月)のテレビ東京15時25分〜16時00分の『“みのもんたの日本ミステリー!3”オススメ』予告番組と9月21日(金)20時54分〜21時00分の『“みのもんたの日本ミステリー!3”』の番組をご覧下さい。
当然に当宮では放送内容を把握はしておりませんが、撮影をお受け致しております。
2007年09月15日(土) No.31 (ものしり知識)

『世良田東照宮』の名称


       

     世良田東照宮 拝殿長押上
  第108代後水尾天皇(上皇) 下賜の勅額


神社の名称には、地名・祭神名や氏族名、またそれに関連する語句などを冠に付けている。
地名に関しては、全国各地の鎮座数が多い神社が用いている例が見られ、東照宮もその一つといえる。
実は『世良田東照宮』という名称は通称であり、『東照宮』というのが正式名称である。しかし日光東照宮や久能山東照宮同様に、当宮も『世良田』という鎮座地名を付け、またその通称名で知られている。やはり相互の由来も異なる上、冠を付けることが通例であり、当宮としても『世良田』をあえて付けるようにしているといったところであろうか。

『東照』とは、元和3年(1617)2月21日に勅賜された『東照大権現』の神号からとられており、東から照らす朝日のように勢い盛んな神の意味が込められている。家康公御遺言には「久能山に吉田神道で埋葬し、一年後に日光に小堂を建てて勧請せよ」。神に祀られることにより「関八州の鎮守になろう」と指示している。
これは平和を願い、戦乱の世を一つに纏めた公の想いであったのであろう。日の国である日本、その全てを照らし出し、未来の平和を願いつづけている神であると言えよう。
同年3月9日、日本の神として授けられる位階正一位が追贈宣下。公の御遺言により神柩は久能山から日光山へ葬られ、『東照社』の勧請となる。

東照社の『社』とは、神社に名づけられる称号の一つである。大神宮・神宮・宮・神社・社などの別がある。
東照社が『社』から『宮』へ改められたのは、正保2年(1645)11月3日に第110代後光明天皇より東照社に宮号が宣下されたことによる。
そのときの宣命には「元和3年に東照社が日光に鎮座されてよりこのかた、国家も平穏で皇室も御安泰、また幕府の政治も安定して現在に至っている。これは、ひとえに東照社の神徳のお陰である。それ故に、東照社を改めて東照宮と称し奉る」と記されている。

神宮号は、日向三代の皇祖を奉祀するもの、皇徳顕著なる天皇を奉祀するもの、古来の由緒が顕著でその慣例のあるもので、すべて旧官幣大社であるとされる。
宮号は、天皇の神霊慰藉のため奉祀したもの、特別の由緒かつ古来の称号のあるもの、そして東照宮のような特別に天皇からの宣下があったものとされている。
つまり『宮号』は神宮と同様に天皇との関わりある神社のみ使用が許された称号なのである。

日光東照社の宮号宣下に伴い、世良田の御宮も『東照社』から『東照宮』と改められている。

2007年09月14日(金) No.30 (ものしり知識)

将軍家の東照宮



絶版『群馬県内の東照宮』

平成2年(1990)8月30日、『群馬県内の東照宮』が発行された。当宮宮司が数年に渡り、県内に鎮座する東照宮に関する文献検索と現地調査を纏めたものである。
現在も調査継続中であるが、群馬県内には当時58社の東照宮が判明している。この数は、昭和10年(1935)の『全国東照宮調』に記載されている社以外の発見も含んでいる。
その後、平成4年(1992)10月17日、高藤晴俊氏著による『家康公と全国の東照宮』が東京美術より発行。当時の調査報告で、全国に555社が判明。こちらも調査継続中であり、新たな東照宮の発見が毎年のように報告されている。

『家康公と全国の東照宮』には、誰が主に東照宮を祀ったのかという観点から全国の東照宮を紹介しており、将軍家勧請の東照宮は8社としている。
日光東照宮・久能山東照宮・紅葉山東照宮・二の丸東照宮・大樹寺東照宮・滝山東照宮・鳳来山東照宮・そして世良田東照宮がその分類にあるという。

江戸末期の肥前平戸藩第三十四代藩主・松浦壱岐守清(静山)が著した全278巻に及ぶ随筆集『甲子夜話』では、幕府勧請の東照宮を紹介している。
『幕府によって造られた東照宮は七ヶ所なりと云う。日光山・久能山・上野・紅葉山・仙波・世良田・船橋である。日光以下世良田までのお宮は何れも御厨子が三ありと云う。これは徳川三代の尊儀を意味しているのではなく、神秘の旨ありと云う。今日、諸国に東照宮は多く祀られているが、そのなかで、幕府を経て造立された東照宮もあるが、多くは私造にて造立されたものである。幕府の役人が遠行した時、幕府を経た東照宮は拝礼するが、私造の東照宮はどんなに壮麗な宮居でも拝礼しないことが作法であると云う。』とある。

上記異なる勧請主の東照宮の見解はここでは控えさせていただくが、日光東照宮・久能山東照宮と同様に当宮があるということが分かる。
2007年09月09日(日) No.29 (ものしり知識)

台風9号


近年の台風による当宮大被害は、昭和40年(1965)9月17日の台風24号の時であった。
それまで、境内に鬱蒼と生い茂っていた杜が全てと言って良いほど薙ぎ倒されてしまった。
幸い御宮への直接被害はなかったものの「杜なくして神社なし」と云われる景観は見るも無残なものであった。

    

【昭和40年御社殿御修復時の災害】 

今回の台風9号関東上陸ということで、昨晩は睡眠もとれず朝を向かえてしまった。
外が明るくなり始めた頃、傘を差し境内をくまなく巡回。御宮への被害はない、このことが一番の安心である。
昭和40年時に失った杜も多くの崇敬者によって甦り、今現在も三ツ葉葵会青年部員により毎年植樹がされている。
台風上陸前、御宮を取り囲む朽ちて危険と思われる木々は全て調査伐採していた。
昼夜の警護や事前対応も御宮を護る神職の大切な務めであるが、過ぎ去った台風の後の境内清掃も日々の清掃以上のものである。
2007年09月07日(金) No.28 (ものしり知識)

江戸時代の御宮拝礼場所




江戸時代、世良田東照宮の境内へは現在のように自由に参入することは出来ませんでした。平常は表門(御黒門)外からの参拝であり、民衆が門を潜ることが出来るのは4月17日の例大祭(家康公薨去日)と正月17日、当地鎮守社例大祭日の計3回のみでありました。しかし本殿はおろか拝殿前まで上がることは言語道断であり、玉垣下の階段前までと決められておりました。

本殿前で参拝をするということは不可能であり、拝殿への昇殿が最も高格の身分となります。殿内に昇殿できるのは、一万石の大名以上。拝殿廊下までは、将軍に謁見できる御目見以上(二百石以上の旗本)。拝殿階段下までは、御目見以下(二百石以下の御家人)であります。

明和3年(1766)5月27日、徳川十代将軍家治公の修復後に幕府の役人が参拝している記事を記す。

『諸役人拝礼にあたり、表門と本殿前の唐門が開扉され、御神前に御神酒が供えられ、拝殿階下に畳が敷かれ、その側に手水鉢が用意される。』
『下奉行は長裃を着用、被官・小役・大棟梁等は麻裃を着用。僧正は拝殿廊下左方に着座。院代ほかは拝殿階段下に並ぶ。下奉行は拝殿階段下にて長裃を下ろし初穂料を役僧に渡し、役僧はこれを殿内の机の上に献ずる。下奉行は廊下にて拝礼、僧正挨拶。以下御目見以下は拝殿階段下にて拝礼。』とある。

現在は、表門(御黒門)は平常開扉され、ご自由に境内参入とご参拝は出来ます。重文指定の拝殿・本殿、宝物館の拝観に関しましては、観光案内ページhttp://www.net-you.com/toshogu/kankoh.htmlをご覧下さい。
また正月3ヶ日は時間指定もございますが、重文本殿前でのご参拝が可能となります。初詣・八番矢ページhttp://www.net-you.com/toshogu/hachiman/index.htmlをご覧下さい。
2007年09月05日(水) No.27 (ものしり知識)

太田かるたの誤記 2


関東取締役


関東取締役は、文化2年(1805年)6月に勘定奉行配下の役職として小領主や飛び地などが多い関八州の諸大名・旗本・寺社領等、また天領をも区別なく巡回し、治安維持や犯罪の取り締まりを行う役として設置された。 
武蔵・相模・上野・下野・常陸・上総・下総・安房の八州を巡察、取り締りと逮捕の権力を一手に担当する言わば移動警察である。
身分は足軽格という比較的下層であるにも関わらず、駕籠を乗り大勢の従者を連れて廻村するなど弊害もあったようである。

当地方で有名な国定忠治も、博徒の島村伊三郎や玉村の主馬、関東取締出役目明しの三室勘助などを殺害したことにより関東取締役から一斉手配を受け捕縛されている。

当宮に於いての関東取締役に関する記述があるので紹介する。

● 文化10年(1813)6月21日、関東取締役の岩鼻代官山口鉄五郎ほか12人が世良田東照宮修復の見分に来る。
● 文化10年(1813)7月 1日、関東取締役が御宮見分終えて帰る。

この時は、再三に渡り寺社奉行へ世良田東照宮修復願書を提出しており、翌年には修繕料銀150枚が下賜され小修復がなされている。

● 天保12年(1841)9月、下田中村(現 太田市新田下田中町)、関東取締役の囚人番申付役の仰せ付けがあったが、世良田東照宮の勤番があるため、免除の計らいを別当寺院代へ願う。

下田中村は、御宮の火の番を勤める一村であった。これらの村々は、幕府から命じられる宿場への人馬の供出が免除される待遇にあったため、同様に関東取締役の申付け断わりを願ったというものである。

● 慶応2年(1866)11月、関東取締役が廻村。世良田村の定右衛門が鶴吉という者を使い、東照宮御神酒造を無株の酒造したことが発覚。「御宮御神酒造」の書付を提示したが没収。酒造諸道具は村役人立会いの上封印され、役人預かりとなる。翌年、岩鼻代官所より焼却の沙汰あり処分。

この世良田東照宮御神酒造の一件は、弘化3年(1846)に別当寺が御宮御神酒造として神領百姓の房次郎に酒造を依頼。それから8年間に渡り醸造し、房次郎が欠け落ちしたため親戚の定右衛門が鶴吉という者を使い酒造操業を行っていたというものである。
しかし、同年の別当寺の願書には「御神酒造は、弘化三年時、寺社奉行久世雲守様へ届け、許可書も下され御神酒を献納してきた」とも見え、御神酒名目での違法な酒造を行っていたとも考えられる。
2007年09月01日(土) No.25 (ものしり知識)

重要文化財


戦前の日本の文化財保護は、明治4年(1871)の古器旧物保存方の布告に始まり、明治30年(1897)の古社寺保存法の制定、昭和4年(1929)に国宝保存法の制定。昭和8年(1933)の重要美術品等の保存に関する法律の制定として保護されてきた。
当宮では、昭和18年(1943)11月に鉄燈籠が『重要美術品』に指定されている。
昭和25年(1950)には、文化財保護法が制定。同年、当宮境内の普光庵跡が『群馬県指定史跡』に指定。翌年には当宮の真言院井戸も同様に『群馬県指定史跡』となっている。
文化財保護法はその後、大幅な改正が行われつづけ現在に至っている。

重要文化財という表記は、文化財保護法に基づき国(文部大臣)が指定した文化財であることを示しており、『重文』のみと略称されることがある。
しかし地方公共団体の指定でありながら、『○○県指定』や『○○市指定』を付けずに『重文』のみの表記をされているところもある。それが故意か無知であるかは分かりませんが、ご注意されてみるとよいでしょう。通例では、地方公共団体(都道府県・市町村)指定の文化財に対しては、『○○県指定』や『○○市指定』と冠に付けるものとなっております。

さて、群馬県に於ける『重文の神社』はというと、6社が指定されております。内、拝殿と本殿を対として全ての建物が指定されている社は4社となっている。

● 東照宮(世良田東照宮)・・・東照宮 本殿(附 厨子及び須弥壇−1具)、唐門 、拝殿(附 鉄燈籠−1基、棟札7枚)、太刀 拵銀造沃懸地太刀 銘了戎

● 貫前神社(富岡市一の宮1535)・・・本殿(附 棟札−2枚)、拝殿(附 棟札−1枚)、楼門

● 妙義神社(富岡市妙義町妙義3) ・・・本殿・幣殿・拝殿(附 神饌所−1棟、透塀−1棟、棟札−1枚、銘札−1枚、旧屋根銅瓦−1枚)、唐門、総門

● 榛名神社(高崎市榛名山町849) ・・・本社・幣殿・拝殿・国祖社及び額殿・神楽殿・双龍門・神幸殿・随神門

当宮では更に、平成12年(2000)11月1日、新田荘遺跡の一つとして境内地全てが『国指定史跡』に指定されております。

文化庁で現在指定されている『重要文化財』の建造物は、2,317件(4,178棟)となっております。普段これらの『重文』建造物がある地域に住まわれている方々は、見慣れたものという当然なものとして感じられてはおられないでしょうか。
それらは、日本の歴史や文化を知るための資料であり、貴重な文化財であるといっても過言ではありません。文化財保護予算というのも削減されている傾向にあるなか、ここをお読みになっていただいている皆さんだけでも再認識し、護るという立場の一員となって頂けることを願っております。

※ 当宮では、文化財保存会である三ツ葉葵会の入会をご案内致しております。何卒、趣旨及び会則をよく御含みの上、御賛同下されますようお願い致します。
三ツ葉葵会 ご入会案内ページ 
http://www.net-you.com/toshogu/yuigon.html
2007年08月31日(金) No.24 (ものしり知識)

世良田東照宮の竣工と正遷宮


【現在、世良田東照宮の正遷宮は、寛永21年(1644)10月11日としているが、本来はその前年度の予定であったのかもしれない】

まず、正確な御宮竣工日というのは定かではないのだが、昭和39年時の御宮修復時に、拝殿正面蟇股上巻斗より『日光より御被下申候也 午六月十五日取付』の墨書銘と同背面蟇股上巻斗より「午六月十五日 二 是ら御取付候也 北」の墨書銘が発見されている。

また天海大僧正は御宮竣工にあたり請願し、後水尾上皇から世良田東照宮へ勅額が下賜されている。勅額裏面には『太上皇宸筆寛永十九年壬午暦良田山天海大僧正奏達而以今刻彫焉』との刻銘がある。

寛永20年(1643)9月17日には、天海大僧正から『毎年四月十七日、東照権現講、諸末寺諸門徒等出仕をいたし、十六日の夜論議、十七日、法会を勤むべし、もし不参の者においては金壱両過料たるべき事・・・』と祭典にあたっての掟が発布されている。同日に御宮別当寺である長楽寺が御宮勧請に伴い、寺内法度が出され臨済宗から天台宗に改修される。

日光東照宮の大造替状況との比較。そして上記の事からしても寛永19年(1642)から寛永20年(1643)内に竣工したのではと推測できる。

では何故? 御宮が竣工されているにも関わらず正遷宮が約一年先送りとなってしまったのであろうか。
実は、天海大僧正が掟を発布後の10月2日に遷化(108歳)されたのである。
世良田東照宮が天海大僧正が携る最後の御宮となった分けであるが、仮に月日が数日ずれていれば、寛永20年(1643)10月17日あたりが本来の正遷宮日になっていたのかもしれない。




 
2007年08月23日(木) No.23 (ものしり知識)

群馬県一巨木な神域桜


当宮の国指定史跡である境内地に植樹されている桜(ソメイヨシノ)には、胸高周囲3.50メートルを越す巨木な桜があります。

ソメイヨシノの寿命は約40年から60年といわれております。これはソメイヨシノの子房は不稔性で子孫をつくる能力は無く、自力で繁殖することはできないからとのことからです。
しかし当宮の神域で見られるソメイヨシノでは、桜の自力での樹勢回復が行われていることが確認されております。

      

         【写真 

写真,任分かりの通り、寿命60年とされる元々の桜の内部を活用し、新しい子孫が生み出されているのです。

この写真,蓮⊃年前までは空洞部分に覆いかぶさるように枝がありました。しかし長い年月により腐敗、余儀なく切断をすることとなりました。
幹内には腐敗した大鋸屑が密集、雨の浸入により更なる腐敗を抑えるため、それらを全て取り除いたものです。
おそらく腐敗した大鋸屑が肥料の役割を果たし、発芽の栄養源と保護が成されたことによる結果なのでしょう。何れにしろ、ソメイヨシノに適した環境にあったということは間違いありません。

       
      【写真↓ 群馬県一巨木な神域桜】

写真↓は、群馬県内では一番巨木なソメイヨシノである。

●根元周囲・・・4.40メートル
●胸高周囲・・・3.60メートル
●目通周囲・・・3.60メートル
●枝張東西・・・20.00メートル
●枝張南北・・・20.00メートル
●樹   高・・・20.00メートル
●樹齢推定・・・不明

写真の幹は、表面に幹が幾重にも重なりあっているのが分かります。おそらく内部に新たに生まれた幹が太くなり、元々の桜の樹皮を押し広げながら一体となっていっているのでありましょう。それらは、現在でも樹皮のひび割れを起こしながら成長をしております。

東照宮神域にあるソメイヨシノは、この他にも十数本生息している。何れも巨木であり、春には境内のどこを見上げても、埋め尽くす程の花を咲かせてくれる。公園や河川敷に人寄せに植樹された桜とは異なり、国指定重要文化財の社殿との調和はもちろんのこと、神域におけるご神徳の現われであることは来宮されて頂ければお分かりになっていただけるでしょう。

注:) 当宮境内地に於いての酒宴やシートを敷いての食事等はお断り致します。


2007年08月21日(火) No.22 (ものしり知識)

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