ものしり知識

金幣御守


当宮で授与される御守りのなかに、『東照宮金幣』という御守りがあります。
本殿に奉幣された金色の幣束(へいそく)を刻み奉書紙に包んだ御守りであり、初詣の元旦から5日までの新年特別祈祷には御札と共に授与されている。

      

       【東照宮金幣御守】

※ 初詣祈祷の詳細はこちらをご覧下さい。
http://www.net-you.com/toshogu/hachiman/index.html

元和3年(1617)、日光東照宮に家康公がお祀りされると、朝廷は勅使を遣わされ奉幣。元和8年(1622)、寛永5年(1628)、寛永9年(1629)、寛永13年(1636)、寛永17年(1640)の御神忌に宣命使を遣わされ奉幣されている。
正保3年(1646)3月10日には参議の持明院基定が臨時奉幣使として日光東照宮へ派遣。以後、翌年4月17日から慶応3年(1867)までの222年間、毎年絶えることなく日光東照宮へ御金幣を奉納されたのである。
前年度に奉幣された御金幣は下げられ、それを小さく刻んで奉書紙に包み、勅使によって一部の者に頒布されました。この御守りを「東照宮金幣」と称し、当時の人々は有難い『金幣御守』として享けたと云われています。

       
        【発見された金幣守】

当宮にはこの『金幣御守』が残されている。現宝物館である建物は、江戸時代には御供所(神饌の調理や直会の場)として幕府により修繕が執り行われてきた。その天井棟木の上から発見されたものである。

       
   【日光東照宮より移された御金幣】

日光東照宮より奥社拝殿等が移遷された際、神宝類と共に『御金幣』も移されている。



2007年10月10日(水) No.38 (ものしり知識)

七五三準備


10月になり当宮も七五三詣の祈祷準備が始まった。

      

   【殿内に置かれた七五三用碁盤】

平安中期より天皇家において執り行われている『碁盤』を使用した儀式には、京都鴨川の青石が持ちいれられている。
碁盤上に置かれた鴨川青石2個を踏みつけ、「えいっ」と声をあげて南側へ飛び降りる。
石を踏むのは罪穢れを取り除く禊(みそぎ)を意味し、飛び降りるのは大地にしっかりと足を付ける意味が込められている。

浩宮徳仁皇太子殿下は、明治神宮の清正の井戸の石を代わりにご使用になられている。

      
       【碁盤上の鴨川青石】
 
数ヶ月前、当宮の崇敬者の方から京都鴨川の青石が届けられました。大変貴重な石であるということで誠に有難く感謝致しております。
また当宮での七五三祈祷で実際に使用して頂きたいとのことで、子供の成長の感謝と健康をご祈念するために、たくさんの子供達に青石を踏んで頂ければ幸いであります。

注意) 碁盤上からの飛び降りは、硬くお断りさせて頂きます。


当宮の七五三祈祷は、ホームページ上の『七五三』http://www.net-you.com/toshogu/shichigosan.htmlと『ものしり知識8月12日』http://www.net-you.com/toshogu/sfs6_diary/sfs6_diary/200708.htmlの記事をご参照下さい。
2007年10月03日(水) No.37 (ものしり知識)

最古の東照宮社殿と彫刻


徳川家康公の嗜みとして有名なものが『鷹狩り』である。生涯1000回以上は楽しまれたとさけている。またそのことで、家康公と鷹狩りの伝承は各地に多く残されてもいる。
家康公が鷹狩りを好むのは、単に遊びを目的としてだけではなく、遠地へ赴き農民の生活ぶりや苦労を知るため。そして身体を動かすことで健康に気を使っていたためであった。


【拝殿正面蟇股の彫刻『松に鷹』】

世良田東照宮拝殿は、元和3年(1617)に日光東照宮創建時に竣工したものを当地に移築した、最古の東照大権現を拝礼するための社殿である。
故に最初の社殿には、公の好きな『鷹』の彫刻が設けられたのである。

元和の幕府大工頭は、伏見城・増上寺・二条城・名古屋城・方広寺大仏殿・禁裏御所・江戸城天守閣・仙洞御所などを手がけた建築界の一台巨匠である中井大和守正清である。
正清は元和5年(1619)1月21日に逝去され、世良田東照宮に残る拝殿が正清の最後の作と云われている。


【拝殿背面蟇股の彫刻『松に鷹』】

『松に鷹』の彫刻に関し、中井家文書に以下の文が見て取れる。

かりとの、ふん(仮殿の分)
一、 壱枚 南西ノかへるまた(蟇股) まつにたか(松に鷹)  拾三人
一、 壱枚 かたふたノかへるまた(蟇股) まつ二つか(松に鷹) 八人

とある。この時にに作られた彫刻は57枚であり、その中で『松に鷹』の彫刻はこの二枚のみである。
日光東照社は、元和3年(1617)3月15日に竣工。(この時の彫刻職人は延べ3468人)
その後、家康公の御遺骸は久能山を発ち、4月4日に日光東照社仮殿へ外遷宮なされている。

この時の仮殿が後に日光東照宮奥社拝殿となり、世良田へ移築されたものとなる。

2007年09月28日(金) No.36 (ものしり知識)

御宮付御医師


新説!?みのもんたの日本ミステリー!〜失われた真実に迫る!〜 第三弾


昨日、午後8時45分から放送の『新説!?みのもんたの日本ミステリー!
〜失われた真実に迫る!〜 第三弾』に当宮が放送されました。
   

司会は、みのもんた/森本智子(テレビ東京アナウンサー)。ゲストに若林豪・沢村一樹・渡辺満里奈・松島尚美(オセロ)・北斗晶・荒俣宏です。
   
ミステリーファイル13『武田信玄と徳川家康は父子だった!?』と題された一つのミステリー内に取り上げられたものである。
   
歴史研究家である杉山光男氏ご来宮のもと撮影が行われ、番組中では

“この暗号から浮かび上がる世良田東照宮に全ての謎を解く鍵が存在するのではないか・・・”

と、ナレター小林清志氏により流され、当宮の映像へとなるものであった。

2007年09月22日(土) No.34 (ものしり知識)

水戸黄門


テレビでお馴染みの水戸黄門。実は当宮にも随分と昔に来宮されております。
現在TBSで放送中の第37部水戸黄門ですが、当宮の話が放映されたのは昭和52年(1977)1月3日のことであります。

第7部33話「十七年目の泣き笑い―伊勢崎−」。
出演者は、水戸光圀:東野英治郎、佐々木助三郎:里見浩太朗、渥美格之進:横内 正、風車の弥七:中谷一郎、うっかり八兵衛:高橋元太郎、霞のお新:宮園純子、おてる:由美かおる、一八:フランキー堺。

格 「日光例弊使街道?」「おいっ!」  
助 「ん?日光例弊使街道・・・」「あっ!!」
格 「その境の宿に、東照宮があるぞっ!」
助 「しまったぁ〜、そこだっ!」「例によってご隠居の “ちょっと寄ってお参りを” だ!」
助 「格さんっ!」  
格 「おーっ!」「おい、その別れ道から横に入れっ!それで利根川を渡れば日光例弊使街道だっ!」

助格八 「ご隠居〜」
助 「お見えになっておらんなぁ〜」」

   3人参拝

八 「もう、行っちゃったのかもしれませんね」
格 「いや、そんなはずはない」

弥 「その通りでぃ」
助 「弥七か? どこだっ!」
弥 「ずうっと、居ましたぜっ!」「まだ、お出でになっておられねぇよ!」
八 「じゃぁ親分は、はなっからご隠居がここにお出でになると?」
弥 「あたりめぇだっ!」
「この辺にお出でになりぁ〜ここにお出でとピーンと来なくちゃぁ、ご隠居のお供はモグリだぜっ!」
「いいか? この辺りの地名は・・・徳川ってんだっ!」
八 「徳川〜?」「ピーンと来なくちゃピーンとっ!」
助 「やかましいっ!」
格 「とにかく、まだだとすると街道の途中かもしれんぞっ!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

というお話であった。利根川から当宮へのコースも些か遠回りのようである。
また、弥七の台詞は当時の流行言葉であろうか? 御宮の屋根に身を潜めていたところも面白い。
更に申し上げれば、映し出されている神社は実は世良田東照宮ではないのである。紀州か日吉とも思えるが定かではない。当宮とは別の神社のロケーションである。

また、以前にも当サイトでご紹介させて頂いたが「水戸黄門東上州漫遊記」という小説が発売され、やはり当宮に水戸黄門一行が参拝されている。 執筆時に当宮へお声をかけて頂ければ、より忠実に尚且つ面白い話をご提供が出来たことと残念には思っている。
2007年09月21日(金) No.33 (ものしり知識)

ミステリー


『“みのもんたの日本ミステリー!3”オススメ』の予告番組では、当宮は確認できませんでしたね。
さて、どのミステリーファイルに出てくるのでしょうか。UFО? 竜宮城?・・・・ミステリーですから、どのファイルでも可能性はあります。

隆慶一郎氏著の時代小説『影武者徳川家康』。これもミステリーでありました。1993年に発行された上・中・下巻。そして原哲夫氏により漫画化。1998年にはテレビ朝日によりドラマ化されました。
そもそもは、明治35年(1902)に村岡素一郎という者が『史疑徳川家康事蹟』というミステリー小説を出版したことから始まる。これにより、隆慶一郎氏ほか大勢の方が家康公影武者説を説くようになりました。

未だにそれが真実かのように思われている方々がおられるようであります。それを信じるか否かは別としまして・・・『世良田二郎三郎』という名が出てくることは当地にとっては嬉しいことであります。 
これらの作家の方々は、この『世良田二郎三郎』という名を果たしてどこから出現させたのでありましょうか? そして何故、『世良田氏』名を影武者の名にしたのでしょうか? 
これが本当のミステリーです。

世良田二郎三郎に関しては、8月1日(水)のブログ『世良田氏の子孫はどこに』をご覧下さい。

※『みのもんたの日本ミステリー!3』 
http://www.tv-tokyo.co.jp/nihonmystery3/
2007年09月19日(水) No.32 (ものしり知識)

テレビ放映


   


日本テレビ毎週月曜〜金曜日8時00分〜9時54分放送の『爽快情報バラエティー スッキリ!! 』のコーナーである『となりのマンマミーア』(6月26日) に当宮が放送されました。
グッチ祐三さんのご来宮により収録され、祐三さんからは「世良田東照宮の世界遺産認定」を頂きました(笑)

毎年1月5日の『御釿始め式』http://www.net-you.com/toshogu/saiji1.htmlは、各局により報道番組等で全国に放映されておりますが、その他にも年に数回は民放各局の番組に取り上げられております。

現在、撮影を終えて放送待ちの番組や取材予定の番組もあり、どこまでお伝えして良いものかと判断に苦しむところでございます。
まずは明後日9月17日(月)のテレビ東京15時25分〜16時00分の『“みのもんたの日本ミステリー!3”オススメ』予告番組と9月21日(金)20時54分〜21時00分の『“みのもんたの日本ミステリー!3”』の番組をご覧下さい。
当然に当宮では放送内容を把握はしておりませんが、撮影をお受け致しております。
2007年09月15日(土) No.31 (ものしり知識)

『世良田東照宮』の名称


       

     世良田東照宮 拝殿長押上
  第108代後水尾天皇(上皇) 下賜の勅額


神社の名称には、地名・祭神名や氏族名、またそれに関連する語句などを冠に付けている。
地名に関しては、全国各地の鎮座数が多い神社が用いている例が見られ、東照宮もその一つといえる。
実は『世良田東照宮』という名称は通称であり、『東照宮』というのが正式名称である。しかし日光東照宮や久能山東照宮同様に、当宮も『世良田』という鎮座地名を付け、またその通称名で知られている。やはり相互の由来も異なる上、冠を付けることが通例であり、当宮としても『世良田』をあえて付けるようにしているといったところであろうか。

『東照』とは、元和3年(1617)2月21日に勅賜された『東照大権現』の神号からとられており、東から照らす朝日のように勢い盛んな神の意味が込められている。家康公御遺言には「久能山に吉田神道で埋葬し、一年後に日光に小堂を建てて勧請せよ」。神に祀られることにより「関八州の鎮守になろう」と指示している。
これは平和を願い、戦乱の世を一つに纏めた公の想いであったのであろう。日の国である日本、その全てを照らし出し、未来の平和を願いつづけている神であると言えよう。
同年3月9日、日本の神として授けられる位階正一位が追贈宣下。公の御遺言により神柩は久能山から日光山へ葬られ、『東照社』の勧請となる。

東照社の『社』とは、神社に名づけられる称号の一つである。大神宮・神宮・宮・神社・社などの別がある。
東照社が『社』から『宮』へ改められたのは、正保2年(1645)11月3日に第110代後光明天皇より東照社に宮号が宣下されたことによる。
そのときの宣命には「元和3年に東照社が日光に鎮座されてよりこのかた、国家も平穏で皇室も御安泰、また幕府の政治も安定して現在に至っている。これは、ひとえに東照社の神徳のお陰である。それ故に、東照社を改めて東照宮と称し奉る」と記されている。

神宮号は、日向三代の皇祖を奉祀するもの、皇徳顕著なる天皇を奉祀するもの、古来の由緒が顕著でその慣例のあるもので、すべて旧官幣大社であるとされる。
宮号は、天皇の神霊慰藉のため奉祀したもの、特別の由緒かつ古来の称号のあるもの、そして東照宮のような特別に天皇からの宣下があったものとされている。
つまり『宮号』は神宮と同様に天皇との関わりある神社のみ使用が許された称号なのである。

日光東照社の宮号宣下に伴い、世良田の御宮も『東照社』から『東照宮』と改められている。

2007年09月14日(金) No.30 (ものしり知識)

将軍家の東照宮



絶版『群馬県内の東照宮』

平成2年(1990)8月30日、『群馬県内の東照宮』が発行された。当宮宮司が数年に渡り、県内に鎮座する東照宮に関する文献検索と現地調査を纏めたものである。
現在も調査継続中であるが、群馬県内には当時58社の東照宮が判明している。この数は、昭和10年(1935)の『全国東照宮調』に記載されている社以外の発見も含んでいる。
その後、平成4年(1992)10月17日、高藤晴俊氏著による『家康公と全国の東照宮』が東京美術より発行。当時の調査報告で、全国に555社が判明。こちらも調査継続中であり、新たな東照宮の発見が毎年のように報告されている。

『家康公と全国の東照宮』には、誰が主に東照宮を祀ったのかという観点から全国の東照宮を紹介しており、将軍家勧請の東照宮は8社としている。
日光東照宮・久能山東照宮・紅葉山東照宮・二の丸東照宮・大樹寺東照宮・滝山東照宮・鳳来山東照宮・そして世良田東照宮がその分類にあるという。

江戸末期の肥前平戸藩第三十四代藩主・松浦壱岐守清(静山)が著した全278巻に及ぶ随筆集『甲子夜話』では、幕府勧請の東照宮を紹介している。
『幕府によって造られた東照宮は七ヶ所なりと云う。日光山・久能山・上野・紅葉山・仙波・世良田・船橋である。日光以下世良田までのお宮は何れも御厨子が三ありと云う。これは徳川三代の尊儀を意味しているのではなく、神秘の旨ありと云う。今日、諸国に東照宮は多く祀られているが、そのなかで、幕府を経て造立された東照宮もあるが、多くは私造にて造立されたものである。幕府の役人が遠行した時、幕府を経た東照宮は拝礼するが、私造の東照宮はどんなに壮麗な宮居でも拝礼しないことが作法であると云う。』とある。

上記異なる勧請主の東照宮の見解はここでは控えさせていただくが、日光東照宮・久能山東照宮と同様に当宮があるということが分かる。
2007年09月09日(日) No.29 (ものしり知識)

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