開運稲荷社(かいうんいなりしゃ)
国指定史跡の当宮の末社には、『開運稲荷社』が鎮座しています。
現在までに分かっている由緒を年表で抜粋してみる。
○元文 元年(1736)世良田東照宮大修復に伴い、稲荷社ほか諸堂社が幕府により修復。(以後同様に幕府ににより修復成る)
○寛保 3年(1743)世良田東照宮小修復の際、東照宮境内社の稲荷社を現在の小高い所へ移築。別当寺慈観房乗真、稲荷社奉祝祭斎行に伴い、金幣と白狐一対を奉納。
○文政 8年(1837)1月1日、東照宮・長楽寺九代目目代菊池武森、午前4時から東照宮祭典に出仕し、別当寺へ年始御礼、年徳神・八幡・稲荷社へ参詣。
○文政 8年(1837)2月10日、目代菊池武森、東照宮境内社の稲荷社と万像庵境内社の開運稲荷社へ参詣。
○天保15年(1844)、世良田東照宮大修復に伴い、稲荷社ほか諸堂社が幕府により修復。第五十三世僧正周道、開運稲荷社へ開運正一位稲荷大明神の神額(神宝方棟梁 林清三郎作)を奉納。
○安政 3年(1856)2月、第五十五世僧正要順、初午日にあたり開運稲荷社へ正一位稲荷大明神の幟旗を奉納。
○明治25年(1892)5月2日、開運稲荷社を東照宮境内へ移築し、東照宮境内社の稲荷社と合祀。
○明治40年(1907)11月6日、東照宮境内社の稲荷社ほか末社、世良田東照宮へ合祀。その後、社殿解体。
○明治40年(1907)12月19日、旧世良田村大字小角田の村社 稲荷神社、旧世良田村上矢島の村社 勝手神社末社の稲荷社、旧木崎町高尾の村社 久呂住神社末社の稲荷社ほかを世良田東照宮へ合祀。
○平成 8年(1996)3月21日、世良田東照宮境内の旧稲荷社跡地に社殿新築成り、遷座祭斎行。
○平成 8年(1996)3月22日、現在の開運稲荷社として奉祝祭斎行。
○平成16年(2004)12月29日、秋草十五郎氏、開運稲荷社へ石製の神狐一対を奉納。奉告祭成る。
●補足・・・開運稲荷社鳥居は、毎年1月5日に執り行われている『御釿始め式』の御用材(対比地材木店 奉納)により製作されている。
【江戸時代東照宮周辺図 菊池貞寛画】 【明治初年の東照宮版画 菊池憲七郎画】
上記年表で分かるように、現在の開運稲荷社は、東照宮境内にあった『稲荷社』と万像庵にあった『開運稲荷社』、明治時代の小社合祀奨励による他三社の『稲荷神社・稲荷社』の合祀によるものである。
創建年は未だ不明ながらも、幕府による修復が成されていた事実。社殿の規模は小さいながらも個人の信仰での稲荷社造営ではなく、幕府直轄の神社で護持する稲荷社と天台宗僧侶の護持する稲荷社が主体となっていることからも、その由緒の正しさとご利益は群馬県内に於いては、別格の稲荷社であるといえる。
また現在も、社宝として『白狐一対』『開運正一位稲荷大明神の神額』『正一位稲荷大明神の幟旗』が残されている。
余談であるが、平成6年より行われた稲荷社再建に向けてのご寄進願いの告知後、それまで宝物館内に展示されていた『白狐』が夢の中に現れ、再建に協力するようにとお告げがあったという報告を数人の方から耳にしました。再建が成った時には東照宮が更に繁栄するであろうとのことでありました。その後、三ツ葉葵会を始め崇敬者、参拝者、観光客の多くの方々からの御協賛を賜ることができました。
2007年06月28日(木)
No.4
(ものしり知識)
ものしり知識 ブログ開設にあたり
世良田東照宮の文化財保存会『三ツ葉葵会』には、40歳未満から成る『青年部』があります。主な活動内容は会に順ずるものではありますが、例祭ほか諸行事の奉仕や毎月第一日曜日の清掃奉仕、東照宮の杜づくりと称した植樹活動などを行っております。
また、『三ツ葉葵会青年部 東照宮ものしり知識』発行により東照宮に関係する歴史や伝統文化を学んでおります。
この日記『ものしり知識』も青年部員だけの購読ではなく、一部分でもより多くの人々にご覧になって頂くことで、貴重な文化財でもある世良田東照宮の維持保存と発展へと繋げて行ければ幸いと開設することとなりました。
世良田東照宮社務所
2007年06月28日(木)
No.3
(ものしり知識)
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