江戸時代東照宮周辺図  愴つの門』


  

【江戸時代東照宮周辺図】

 ‘邯飜隋ΑΑε貍筏楞老時に造営された門であろうと思われる。天明6年(1786)7月16日、度重なる大雨の影響により利根川が氾濫。御宮南御門の南側の塀が四十軒(73メートル)ほど流されるとの記述があり、寛政8年(1796)の東照宮大修復にあたり、見分に訪れた棟梁が描いた建地割図(寛政7年5月)が現存している。また門前には三方下馬札が設けられ、身分の高い者でさえ門より先は徒歩で参進せねばならなかった。

◆〜躙飜(御総門・御黒門)・・・東照宮創建時に造営。平常は門扉が閉ざされ、一般の人が参拝できる日は1月17日と4月17日の大祭日と6月15日鎮守社の天王宮(八坂神社)の大祭日のみであり、しかし参拝箇所は「鳥居内、拝殿前石段の下まで」と決められていた。また警護においては、平常の清掃・火の番と祭礼・修復時の奉仕として、川南(中瀬・上手計・下手計・南阿賀野・北阿賀野・大塚・血洗島・横瀬・町田・成塚・新戒・高嶋)の埼玉県深谷市。川北(世良田・粕川・出塚・大舘・堀口・上田中・下田中・上江田・中江田・下江田・高尾)の群馬県太田市と(八木沼・平塚・中嶋・高岡・境・女塚)の群馬県伊勢崎市が行い、これらの村々は火の番助郷とも言われ、御宮の番をすることで幕府からの命じられる宿場への人馬の供出を免除される待遇があった。

 鼓楼門(太鼓門)・・・世良田照宮の祭典時に、楼上にかけられた太鼓で合図をしていた門。

ぁ”縮隋ΑΑδ抗攣の門。

ァ|蝋門・・・神領目代の菊池家墓地と長楽寺墓地に通じるための門。

Α)霧飜隋ΑΑε貍筏楞老時に造営された門であろうと思われる。南御門同様に三方下馬札が設けられていた。

А‐綮般(勅使門)・・・寛永21年(1644)10月11日の遷宮に三代将軍家光公の名代として大老酒井讃岐守忠勝が参詣していることからも御宮造営時に世良田東照宮の正門として建立されたものと思われる。元文元年(1736)の棟札では「勅使門」、宝暦13年(1763)以降は「上使門」と記されている。元禄以降は名代が途絶えた記事も見られ、開扉されることは無く「開かずの門」と言われている。

─〜輒隋ΑΑδ抗攣の正門。嘉永4年(1851)に長楽寺住職として戒善院権僧正が入院された際に、「総門から入り三仏堂を御拝、東照宮・開山堂を御拝・太鼓門を出て駕籠にて表門から本堂へ入る」とみえる。


この八つの門には、正月17日と4月17日の大祭の前日から当日にかけての2日間、川北が名主・総代のほか30人と掃除人足が20人、川南が名主・組頭が各5人と人足50人の約120人の人々が詰め厳重に御宮を警備した。
2007年07月03日(火) No.5 (ものしり知識)