江戸時代東照宮周辺図 『御神領百姓』



【 御 神 領 】

上記絵図の民家名は、天保14年(1843)10月に目代であった菊池武森(英之進)による「御神領百姓見取図」によるものである。

御神領内に住む人々は神領百姓と呼ばれた。畑・宅地は一定の年貢を納めなければならなかったが、神領外とは違い幾分の除地によりその分の年貢はなかった。

これらの家々は、東照宮の修復が始まると諸役人・諸職人の宿泊所の提供と接待を任ぜられた。幕府の役人だけあり気配りは大変であったであろうが、幕府のお定めのお触れには、「宿泊の家は見苦しくても構わず、米代などは定めた賃金でその都度支払い、料理は一汁一菜の他はご馳走しない」等が決められ、無償ではなかったことが分かる。半年近くの期間に数百人が滞在するわけであるから、逆に潤いは大きかったであろう。また修復後には幕府からの慰労金が下賜されるなどの恩寵に浴した。

寛保2年(1742)8月1日、利根川大洪水。御宮破損。神領民には返済5ヶ年の救金でる。
享和3年(1803)、御神領の民家23件他3件が大火。食料を与え、貸付金を三ヵ年後からの返済と便宜が図る。
嘉永4年(1851)12月27日、長楽寺門前大通西側の丸屋より出火し120棟焼失。29日、神領内25軒と御料所6軒に米半俵、借家者9軒に米1斗づつ給ずるなどの記録もみえる。
2007年07月07日(土) No.8 (ものしり知識)