江戸時代東照宮周辺図Α惴羶昔里鯤欷遒垢詼戮鳩γ蓮


  


 敕貍筏榾榲尊険Δ遼戞曄ΑΑΩ渋犬垢襦8羌楞老前の当地は、臨済宗長楽寺の敷地であった。天台宗への改宗までには、大老酒井讃岐守忠勝や世良田を領していた忍藩藩主(老中)阿部豊後守忠秋に直訴と成敗の承諾を得るなど、禅宗系寺僧達の相当な抵抗があったようである。
寛永16年(1639)2月、東照宮勧請にあたり、天海大僧正は豪俔を通じ晃海へと様々な指示をしている。その中に「山を谷、谷を山にするのも思いのまま、よくよく見立てて速やかに行うように。」との指示もある。現在ある堀は、この指示により掘られたものであろう。本殿侵入を防ぐためでもあったであろうが、本殿が土盛りされた上に建築されているため、そのための土を掘ったものとも思える。

◆敕貍筏榮鄲Δ侶γ(長堀)】・・・昭和60年、隣接の東毛資料館会館にあたっての整備前まで堀の後が残っていた。当時の深さは不明であるが御宮侵入や水からの被害を防ぐための堀であった。

【東照宮から長楽寺にかけての長掘】・・・一部現存する。当時の深さは不明であるが御宮侵入や水からの被害を防ぐための堀であった。

ぁ敕貍筏榲貘Δ砲△覦水堀】・・・平成4年の区画整理時まで堀の片側土手は残っていた。生活排水や雨水を抜く水路。当時の深さは不明であるが御宮侵入や水からの被害を防ぐための堀であった。

ァ敖抗攣北側にある土堤】・・・現存しない。長楽寺の作場を囲むように土堤が築かれていた。現在は三仏堂南側に土堤が残されているが、水や風を防ぐためや侵入を防ぐために設けたものであると思われる。

その他にも御宮を守護するために堀や土堤があったであろうが、現在調査中である。
2007年07月14日(土) No.11 (ものしり知識)