江戸時代東照宮周辺図─ 惴羌椶両緘崕蠅伐屡崕蝓



【‐緘崕蝓Ν下番所】

御宮上下番所は、御宮創建時に幕府により建てられた。江戸時代東照宮周辺図 愴つの門』項△任盻劼戮燭茲Δ法∧疹錣遼媛个篆緞匹稜ぬ魁祭典時や修復期間中の警護のための勤番所が設けられていた。

上番所・・・間口二間、奥行一間半。諸道具は、三ツ道具とう突棒(つくぼう)・刺股(さすまた)・袖搦(そでがらみ)、鳶口3本、棒10本が置かれていた。
下番所

何れも、川南(埼玉県深谷市)の12ヶ村、川南11ヶ村(群馬県太田市)と6ヶ村(群馬県伊勢崎市)が昼夜交代で出仕し御宮の警備についた。

神領内で火災が起きると、火の番は火消し道具を取って駆けつけた。火消し道具とは、大団扇のことで、6尺から7尺の長柄の先に表面を黒漆で染め、白字で記したものであったとのことである。この大団扇を使い、火の手に向けて数100人が一団となり、火勢を彼方へ扇ぎ返すという趣向であった。

御宮の修復期間中は更に番所は増え、自費にて1ヶ所5両ほどで仮に建設された。
○ 御宮鳥居南方・・・・間口三間、奥行一間
○ 御宮表門前・・・・・間口四間、奥行三間
○ 御宮仮殿前・・・・・間口二間、奥行一間半
○ 平塚材木揚場・・・・間口四間四方
○ 太鼓門前・・・・・・間口四間、奥行一間
○ 小屋場入り口・・・・間口一間四方
○ 材木置場の三仏堂

2007年07月27日(金) No.15 (ものしり知識)

太田かるたの誤記


歴史の解釈と判断というのは、難しいものです。本屋さんで並んでいる本やテレビ時代劇で放送されている内容というのは、必ずしも正しいものではありません。もちろん各市町村発行のものもそうです。全国の神社寺院、史跡等の表記においても、それが全て正しいものと認識せず、自ら調査研究していく必要があります。

本日は、『太田かるた』について述べさせてもらいます。

平成17年3月28日、当地新田郡尾島町世良田は太田市世良田町として市町村合併を致しました。
翌年11月に市民憲章の普及推進の一環として、太田市かるたというものが製作販売(525円)されております。

当サイトでも報告致しましたが、東照宮も『と』の読札として取り上げられました。
その後、説明文を見て驚かされました。なんと和暦が間違っているではありませんか。
東照宮の正遷宮は21年(1644)10月11日です。しかし、正保元年(1644)と明記されているのです。

これをお読みのたくさんの方は、おそらく単なるミスプリントであると感じるかと思いますが、この説明文に関しては一切に当宮が関わっていなかったことなのです。
当宮に校正依頼もなく、作成委員会がご担当されて、その方々の解釈のみで作成されていたものだったのです。

市民からは、この件の電話や来宮時でご指摘されて、大変困りました。

もちろん当宮のことでありますので市民推進課の方へご指摘させてもらい、増版の際には当宮校正の元に新たに作成させてもらうことをお願い致しましたので、次回製作時には正式なものが出来上がっているのであろうと期待しております。

ご迷惑おかけしましたこと心からお詫び申し上げます。この件は、また後日にこちらで報告させてもらいます。


2007年07月27日(金) No.14 (ものしり知識)