『御宮御神田』神領用水の石橋2


中島藤三郎の言う「新町(現太田市世良田町字新町)の豪家茂木友右衛門が日光例幣使道の三枚橋と他二ヶ所に橋を架け替えた」との記述。 
実は他にも、御宮別当寺であった長楽寺三仏堂の境内に建立されている馬頭観音供養塔には「アーンク 南無大日如来 南無馬頭観世音菩薩 奉納 四国西国 坂東秩父 巡礼供養 寛政四年 壬 子 三月吉日 石橋五ヶ所 上州新田郡世良田 御神領 茂木友左エ門 従日光駅路小角田前 御神領移此処者也」と記されている。

この友右衛門は、石橋だけではなく、寺中万像庵の再築や観音堂の建築も実費で行っている。何故に豪富となったかというと、一説には、ある時に金銀財宝とともに女の首が入った四斗樽が届き、その女の追福のために巨額な金銭を仏具等に喜捨したのだと伝えられる。
観音堂は、三間四面の小堂漆塗りの瓦屋根建物。堂内には百観音の木造が安置されていたそうであるが、明治維新後に友右衛門の一族の建次というものが、財産の傾きで居宅が無くなり、同寺に乞うて観音堂を貰いうけて自分の宅地に移して居住したと伝えられる。

早速、この三ヶ所(三枚橋と他二ヶ所)と五ヶ所の石橋の違いを現地に足を運び調査を試みてみた。


【箇所の石橋】


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,了蝶爾魎泙瓩襪罰里に現在も五ヶ所の石橋が残されている。

しかし些か疑問に感じている。昨日のブログにある【 銑ジ什漾確認できる石橋の位置(Map Fan)】http://www.net-you.com/toshogu/sfs6_diary/sfs6_diary/44_2.jpgをご覧になって頂きたい。
,亮┐靴深个瓩瞭擦両部分の箇所が現在も残る例幣使道である。例幣使道はその道が下まで延び、群馬県道312号太田境東線辺りを通行していたのであるが、◆銑イ琉銘屬砲△觚什澆寮亢彊銘屬販稱昌汎擦箸異なっている。
これだけの石橋が例幣使道以外の農道で使用されていたとは考えにくい。「中山道例幣使道分間延絵図」では、例幣使道沿い五ヶ所に石橋があったことが確認できる。
ところが明治9年(1876)10月に書かれた「小角田地租改正図」では、2ヶ所が例幣使道沿いで確認されるものの、その他の橋は道沿いから少し離れた場所での確認となっている。

定かではないが、幕府崩壊の混乱した時代に田畑や民家の位置、農道も変わることで移動されたのではないかと推測する。,龍兇僕僂い蕕譴神个全て揃っているのか、◆銑イ実物の橋を解体後に同じように組み合わせられたものなのかは分からない。今後、専門家の調査によって解明されることを願っている。

2007年10月26日(金) No.45 (ものしり知識)