御宮近隣の歴史散歩 Α擲運稲荷社】


未だに調査報告が成されない社の第六段は、「世良田五社稲荷」の最後の一社である。

そもそもこの「世良田五社稲荷」の存在を知ったのは、江戸時代東照宮周辺図
http://www.net-you.com/toshogu/edozu.htmlに記載されている社で、未だ調査報告がなかったものを現地調査してみようということからであった。
周辺図にある稲荷社を調査するなか、当方も現在の社の所有者にお話をお伺いをして初めて知ったことである。
所有者でさえも他の稲荷社の全てを知る方も少なく、江戸時代は信仰があったものの、その存在すら忘れ去られつつある「世良田五社稲荷」なのである。

稲荷社四社までは比較的にすんなりと調査できたものの、残すところの一社が断定できない。実は、これまでの所有者に伺ったところ残りの一社は様々な箇所を言われていたのである。

このブログを書く中、江戸時代の鎮座位置を確認するため、弘化二年(1845)の「上毛新田世良田略絵図」を引用した。再度、絵図全体に目を通すと、「いなり」の文字がある箇所がもう一つあるのである。
それは、現在当宮境内に移遷される前の『開運稲荷社』である。

              
【上毛新田世良田略絵図の開運稲荷社】

絵図内では、そのほかに「いなり」の文字は一切確認は出来ないのである。この『開運稲荷社』の由緒からしても、この稲荷社を除いての「世良田五社稲荷」は考えにくい。

『開運稲荷社』については当ブログの2007年06月28日(木)No.4【開運稲荷社(かいうんいなりしゃ)】http://www.net-you.com/toshogu/sfs6_diary/sfs6_diary/200706.htmlの項で記しているので、そちらをご確認頂きたい。

          
   【世良田東照宮境内社の開運稲荷社】

絵図上の稲荷社の現地に調査に行ってみた。確か、その地だけは木々に覆われて周辺よりも幾分小高くなっていた記憶がある。しかし、残念ながら現在は周りの墓地と風景が変わらぬようにすっかりと無くなり、その地は墓地となっていた。どうやら平成初年に開拓されていたようである。こういった由緒ある地が当地のみならず、他の地でも知らずと忘れ去られて跡形も無くなることに寂しく思えてくる。

明治25年(1892)5月2日に、そもそもあった当宮境内社の「稲荷社」へ移遷合祀することで、絵図上の箇所には建物も無くなり、『開運稲荷社』があったことすら忘れさられたのではと推測する。
五社目を伺う中、この箇所の近くの民家にあるとの話も出てきた。おそらく「上毛新田世良田略絵図」を見たことの有る者が「開運稲荷社」の由緒を知らずに間違って伝えている故のことであろう。

「上毛新田世良田略絵図」に記される「世良田五社稲荷」は、『天徳寺稲荷社』・『守下稲荷社』・『津久井稲荷社』・『陣屋稲荷社』、そして現在当宮境内に鎮座する『開運稲荷社』の五社であるとして稲荷社の調査を終了することにする。
2007年11月20日(火) No.52 (ものしり知識)