郷主勧請の東照宮

由来徳川氏始祖義季公から八代目である親氏公は、
南北朝の戦いで室町幕府による新田氏残党追捕の幕命
により新田之庄を出国せざるをえなくなります。
 徳川郷の生田隼人は、親氏公の出国時に銭一貫文と
品物を餞別とし、郷内の百姓とともに中瀬(現 埼玉県深
谷市)までお見送りをしました。またその時に親氏公の領地
を預けられたことで、以後 生田家が徳川郷主となります。

 天正19年(1591)徳川郷主 生田家十六代義豊は、武
州川越(現 埼玉県川越市)で家康公に謁し「新田徳川
系図」の提出と生田姓から正田姓への改めを命じられます。
同11月には、家康公より徳川郷へ三百石の御朱印を寄進
正田家に徳川遠祖の御館跡を子孫末代まで居屋敷として
所持してよいと仰せつけられました。
 寛永21年(1644)世良田東照宮勧請にともない、十八代
正田義長は邸内に私的な東照宮を建立したました。祭祀は
正田家が執り行い、世良田東照宮と同様に4月17日と正月
に限り庶民の参拝を許可しました。
 明治5年(1872)邸内社であった東照宮の社地を徳川郷へ
寄進。同40年(1907)11月6日、郷内4社各末社が合祀さ
れたことにより、徳川郷の鎮守に崇められるようになりました。
 大正3年(1924)6月3日、徳川郷内の永徳寺より「権現堂」
を移築、それを拝殿とし現在に至ります。