徳川家康公の先祖は、新田氏の始祖である義重から新田荘の内、当地「世良田」 他5カ郷を譲り受けた子の義季である。義季は5カ郷内にある利根川沿いの押切を徳川と改称し、 徳川義季と称した。承久3年(1221)世良田郷を開発した義季は臨済宗長楽寺を開基し、世良田の義季とも称された。寛元4年(1246)頃、亡くなり同寺境内に葬られた。その後、頼氏・教氏・家時・満義と後継。 次の政義・親季・有親は、南北朝時代に南朝方として活躍したが、9代目の親氏に至り北朝の猛勢により徳川郷を追われ同志 や一族の居所を頼りに出国。諸国を流浪の後、松平郷に身をよせ郷主在原信重に入婿し、松平親氏と称した。 それから7代を経て家康公は誕生した。家康公は三河一国を統一した25歳の時、松平姓から 徳川・世良田を開発した徳川義季にあやかり、徳川に復姓した。
また松平家二代泰親は世良田三河守、同三代信光は世良田二郎三郎、同七代清康は世良田次郎三郎、家康公第四子忠吉は世良田下野守、尾張家三代綱誠は元服時に世良田、徳川七代将軍家継は幼名時に世良田鍋松君と先祖の姓である世良田を称していた。 

寛永16年(1639)天海大僧正は徳川家康公から御下命されていた長楽寺を臨済宗から天台宗へ改宗復興。三代将軍家光公は先祖の遺徳と当地方の守護神として、二代将軍秀忠公造営の日光東照宮奥社(神廟=多宝塔 ・唐門・拝殿)を移築。本殿は新築し、東照宮を勧請された。同21年(1644)10月11日には正遷宮が盛大に斎行され、同年12月には群馬県下の神社でも高禄の200石の御朱印が寄せられた。以後、大小15回による社殿の修復は幕府の財政により賄われて来、世に 「お江戸見たけりゃ世良田へござれ・・・」と俗謡を生んだ。
 

The origin of Serada Toshogu:
 Ieyasu Tkugawa was born in 1542. He unified Japan after about ten decades of
civil war and he laid the foundation for long period of peace.He passed away
in 1616 at the age of 75 years old.
 The second shogun, Hidetada, built two of the Toshogu shrines in the kuno-
mountain and Nikko-mountain areas. Ieyasu was buried in kuno-zan Toshogu shrine
and his body was later moved to Nikko Toshogu shrine, as was written in
Ieyasu's will.
In 1644, the third shogun, Iemitsu Tokugawa, transferred the old shrine
buildings and treasures from Nikko Toshogu shrine to Serada. He dedicated them
to Ieyasu in praise of his natural virtue and to recognize Ieyas as a
protective god of this area. Because Serada is the birthplace of the Tokugawa
family, it has been said that,"If you want to see Edo. Please come to
Serada...."

※Edo was the previous name for Tokyo.


詳しくは、由来書「徳川氏発祥の地 世良田東照宮」をお求めください。


 

元和2年(1616)1月鷹狩に出かけた家康公は その夜にわかに発病4月になると病状は悪化 自らの死期の迫ったことを悟った。公は、本多正純、 南光坊天海、金地院崇伝を召し数々の遺言を残している崇伝日記『本光国師日記』二十に死後の処置についての遺命を伝えている。
 
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