後期(1087〜1184)で有ると書かれている本が大部分である。永仁六年(1298)に神明帳が神主・赤石中清によって書き写されていることからこれより以前であったことは間違いのないことである。
上野神明帳 国内の諸神を合祀したとき作られた神明帳の冒頭に「總五百四十九社勧請故当社大明神是当社之宝物也」・・・・・とある。このとき作られた神明帳はその後三回にわたって書き写されている。永仁六年十二月二十五日神主赤石中清正本を書き写すとあり、次に貞和四年三月二十九日・社司赤石春永仁六年の神明帳を再び書き写すついで、弘治三年二月二日神主赤石中喜貞和四年再写の神明帳を書き写すと記され是が現在に伝えられている神明帳である。なお、この神明帳は巻子(けんす)仕立てとなっていて、紙幅二十七糎、長さ四米で総社大明神から始まり相殿十祭神、摂社五百四十九社の祭神を郡別に記してある。昭和九年の陸軍特別大演習の御統監に行幸された天皇陛下の天覧を仰ぎ、畏くも幣帛料を下賜された。また、昭和四十九年には県の重要文化財に指定された。
延喜式神名帳 上野国内には式内社と呼ばれる神社は十二社あり、国司は幣帛として大社には糸三両、綿三両、小社には糸二両、綿二両が奉幣されていたが、当社に国内諸神を勧請合祀後は、国司は自ら奉幣にでむかないですむようになった。