佐渡を入れて全国六十八カ国が小国、中国、上国、大国の四段階に区分されたとき上野野国は最初上国にはいっていたが、人皇第五十二代嵯峨天皇の弘仁二年に親王が治めるようになってから大国になった。こうして大国十四カ国に入ったことは
一、交通の要衝であったこと
二、山と平野を持つ豊かな自然環境であること
三、内陸にあるため災害の少ない安定した地域であること
四、大きな関東平野を東南に控えていること
以上の条件と、親王の任国となって上野野国の国府は益々重要な物となり東国の文化の中心となった。
国分寺を完成させた当時の三代目国司大宅大国公(参考文献によると「大伴宿濔伯麻呂」)は、寄せる崇敬殊に篤く、旦に社殿に額づき夕に寺塔に詣でるを例とし、上野国治国の要諦としたと伝えられる。また、国司は国内各地の神社に幣束を捧げ、親しく巡拝していたが、人皇第五十六代清和天皇のころ国司は上野国内各社の神明帳を作り、国内十四郡に鎮座する総五百四十九社を勧請合祀し、当社を参詣することにより国内全部の神社を参詣したこととし巡拝奉幣の労を省いた。国内総五百四十九社を合祀したことにより総社と称え、社号を総社大明神と改称した。このとき国司より献納された額に「正一位護国霊験惣社大明神」とあり、これは今も当社の宝として宝物殿に納められている。また、この額は清和天皇の勅額で有ると言われている。
上野国内十四郡の各社を勧請合祀したのは、平安後期(1087〜1184)で有ると書かれている本が大部分である。永仁六年(1298)に神明帳が神主・赤石中清によって書き写されていることからこれより以前であったことは間違いのないことである。