御宮近隣の歴史散歩 ァ攷慍旭隹拏辧


未だに調査報告が成されない社の第五段は、『陣屋稲荷社』である。
「世良田五社稲荷」の四社目の現地調査報告となる。
こちらの稲荷社も邸内にあるため、許可無く立ち入りは出来ません。

      

【上毛新田世良田略絵図の陣屋稲荷社】

上記,蓮◆11月07日(水) No.48」で紹介しました『天徳寺稲荷社』。
△蓮◆11月09日(金)No.49」で紹介しました『守下稲荷社』となります。

は世良田略絵図に記された『陣屋稲荷社』である。この一区画は陣屋と呼ばれていた地である。
稲荷社の西北には、土居(集落や建物などの周囲に防御のために巡らした土塁)の跡が現在も残されており、敵の侵入を防ぐために地面に掘られた塹壕の跡とも思えるものもある。

    
      【現在の土居跡】

実は、この地は慶長年間(1596〜1614)より寛文3年(1663)まで、岩松守純、岩松豊純、岩松秀純が居住していた地である。
また、世良田東照宮の造営に尽力した老中阿部豊後守忠秋も寛永3年(1626)から元禄11年(1698)まで当地を領し、ここに陣屋を置いたという。両者が同一区画内を陣屋としていたのかは不明である。

        
        【現在の陣屋稲荷社と内部の社殿】

現在の陣屋稲荷社は近年になって再建されたものである。しかし、建設した大工が当時の社を原寸通りに再現したものであるとのことで、内部には当時のものと思われる同寸法の格子扉等もそのまま保存されている。
 
これまでの『守下稲荷社』と『津久井稲荷社』同様に外陣内陣となる社であり、内陣の社は正面蛙股内には雲と稲荷宝珠の彫刻、向拝柱には獏の彫刻がなされている。漠の彫刻は三社とも見受けられた。

蛙股・漠の飾り・斗栱の三箇所は漆拭きの跡が残されており、この部分だけは創建当初の物であろう。他は所々修繕が成された箇所が伺える。

また外陣内部には格子扉の他に再建前の社の壁一部が残されており、「御昇神 正一位稲荷大明神 宝暦四年申戌歳二月初卯 ○○○之」と記されている。
「御昇神」とは、この地に鎮座したことと読み取れるが、ここでいうものが果たしてそうなのか判断するのは難しく思える。

『守下稲荷社』に残される文書といい、宝暦四年(1754)が何かを示すものであろう。ともかく同年の記述を確認することができた。








2007年11月19日(月) No.51 (ものしり知識)

御宮近隣の歴史散歩 ぁ敖典廾羂隹拏辧


未だに調査報告が成されない社の第四段は、『津久井稲荷社』である。
「世良田五社稲荷」の三社目の現地調査報告となる。
こちらの稲荷社も邸内にあるため、許可無く立ち入りは出来ません。
              
     

【上毛新田世良田略絵図の稲荷社跡】

上記版画の絵図の○印の箇所に「いなり」と「氏神」の記述がある。両文字の間にはカナ文字で「ソノイ」とも読み取れる。おそらく、所有者が津久井氏のため「ツクイ」とのカナ文字が本来である可能性は高いと思われる。

弘化二年(1845)の「上毛新田世良田略絵図」上では早川沿いに鎮座しているようであるが、現在はこの箇所には稲荷社は確認できない。
絵からの判断では難しいものではあるが、現在も同地の箇所は津久井家の畑となっている。その周囲は全てが田んぼとなっており、この箇所に鎮座されていたのではと想像することができる。

    
   【現在の津久井家邸内に鎮座する稲荷社】

現在は社の所有者邸内に鎮座されている。朱塗りの鳥居が設けられ、守下稲荷社同様に外陣と内陣と成る造りとなっている。
外陣内部には「昭和七年三月八日 稲荷社殿改築 当主 津久井藤四郎」との棟札が見受けられる。この時に移遷されたのであろか定かではない。
内陣の御社は二社とも朱塗りとなっており、虹梁部分も凝った作りである。

近隣者の話によれば「へいしろう稲荷」との通称名もある。昭和七年の当主の名である「とうしろう」の勘違いではとも思えるが、それ以前に「へいしろう」と言う名の先祖がおられた可能性もある。この辺りは新たな情報もあるかもしれないので、記事修正として再度ここで書き換えようかと思う。

     
【津久井家稲荷社の裏に鎮座する石祠】

調査を終え、再度正面から稲荷社を拝むと裏側に石の祠があることに気付いた。許可を頂き確認をしてみた。
現稲荷社との関係は一切不明であるが、立派な石祠が三社、鎮座している。手前の石祠の正面窓の両側には何やら文字が一行づつ彫られていたようである。右側頭に「奉」文字がなんとか読めるが、残念ながらその他は荒廃して読み取ることは出来なかった。
昭和53年発行された「尾島町の石造遺物」にも記載されていない。編集委員会も気が付かなかったのか、それとも削除されたのか分からないが、窓枠といい、屋根といい、随分と立派な社であるのに解明されていないことが誠に残念でならない。





 
2007年11月12日(月) No.50 (ものしり知識)

御宮近隣の歴史散歩 【守下稲荷社】


         

   【東照宮周辺図 守下稲荷社の位置】

未だに調査報告が成されない社の第三段は、『守下(もりした)稲荷社』である。
やはり、こちらの稲荷社も邸内にあるため、許可無く立ち入りは出来ません。

今回、この稲荷社の調査にあたり多くの情報を得ることが出来ました。やはり歴史の調査は現地調査に限ります。

        
           【現在の守下稲荷社】

社の虹梁部分は若葉と雲の彫刻があり、現在も漆拭きであったことが確認できる。

        
        【守下稲荷社の内部】

内部には稲荷社の御社が祀られている。外側の社を外陣、御社を内陣としているようである。

社の所有者の先祖は、「上野国新田郡世良田郷祇園殿記」や「上野国新田祇園牛頭略縁起」などにも名前が見受けられ、当地の鎮守社の御神像を津島神社(愛知県津島市)から遷座させた一族として由緒ある旧家といえる。
また、「宝暦四年甲戌年八月十五日 吉田二位門人 朝倉大和守藤原正勝」による守下稲荷社に関する文書の写し巻物を保有している。
その他、國分寺という寺にもこの稲荷社に纏わる資料があるとのことであるが当方での確認はしていない。

稲荷社二社目の調査によって、どうやら旧家の邸内社としての勧請によるものではないかと想像する。但し、近隣の者の信仰もあつく、江戸期には参拝者も多くあったものと思われる。

調査経由をお話したところ、新たな情報をお聞かせ頂いた。
当地には「五社稲荷」と呼ばれる5つの稲荷社が古くより祀られているとのことでした。前回に報告した「天徳寺稲荷社」もその一つに数えられるとのことでした。


この他三社は、「東照宮周辺図」の範囲以外の地域に広がるようであるが、ここまで来ると調査継続せねばならないであろう。地元郷土史家によって纏めて頂けると有難いのであるが…社務の許す限り、当方で現地調査をし報告しようかと思う。
2007年11月09日(金) No.49 (ものしり知識)

御宮近隣の歴史散歩 ◆敕憩岨稲荷社】


        

【東照宮周辺図 天徳寺稲荷社の位置】

未だに調査報告が成されない社の第二段は、『天徳寺稲荷社』である。
現太田市世良田町内に鎮座するこの社は、民家の庭先にあるため、許可無く立ち入りは出来ません。

弘化二年(1845)の「世良田郷絵図」「上毛新田世良田略絵図」で確認が取れるものの、その由緒は不明といっても良いであろう。とにかく資料がないのである。

地元の方に聞くところ、現在の建物は昭和30年(1955)以降に社の近隣者によって再建されたものであるとのこと。社の虹梁部分は若葉の彫刻が成されているが、材木の質は良いものではなく、その彫りも素人の彫りであることが分かる。

     
        【現在の天徳寺稲荷社】  

当地鎮守社に御霊は移遷されたとのことであるが、崩れかけた建物の内部を覗くと、御鏡や御幣の棒などが瓦や壁などの下敷きになりながらも確認することが出来る。御鏡の裏面には文字の確認は取れず、鏡台は些か新しく思えた。

また、この社地には明治時代ころより昭和中期まで御岳教の先達が居住していたとのことで、社殿内で火を用いての祈祷が行われていたとのことである。内部に残る大きな火鉢のようなものがそれに使われたものであるかは定かではない。

そもそもは江戸時代、またそれ以前は僧侶により祀られていたものであり、御岳信仰とともに先達により引き継がれたのではと想像する。




2007年11月07日(水) No.48 (ものしり知識)

御宮近隣の歴史散歩  敞幡社】


江戸時代東照宮周辺図
http://www.net-you.com/toshogu/edozu.html で確認がとれる、近隣の史跡を調査してみようかと前々から考えていた。
これまでも旧尾島町教育委員会や文化協会などにより、調査書などの発行もあり史跡などの文化や歴史は随分と報告が成されている。しかし、それらでさえも掲載されぬままの小さな社や石碑なども実際とのところ数多く残されている。
「東照宮ものしり知識」とは異なるものとなるが、江戸時代の御宮近隣の状況確認として、資料化されていないものを記すこととする。

    
【東照宮周辺図 八幡社の位置】

地元のお年寄りにお聞きした話によると、古くよりこの地に鎮座する由緒ある「八幡さま」とのことで、昭和中期までは小高い山の上に社が鎮座しており、周囲は木々に覆われていた。江戸時代は社前にある道を中瀬江戸道といい、その道から小高い山まで10メートル程の参道もあったそうである。
昭和22年(1947)9月のカスリーン台風の時、当地は利根川の氾濫により床上浸水にもなる状況であった。八幡社近隣で牛を飼う者が、この八幡の小高い山へ牛を避難させたとのことである。少なくともそれ以前は山もあったようである。現在も「はちまんやま」と名が残っている。

           
【現在の太田市世良田町字南八に鎮座する八幡社】

現在残る八幡社は、実際の場所より南に数メートル程移動され、小高い山や木々、参道は無くなっており、畑の隅にひっそりと勧請されている。
数年前に私が調査散策に訪れた時は石燈籠が崩れていたが、祠に下げられた紙垂などを見ると、地域の方が個人的にお祀りをされているようである。
現在、祠と道祖神の石碑、石燈籠が残されている。道祖神の石碑は、道路整備時に近くの道より移されたものであろう。石燈籠は、おそらく当時のままのものではないであろう。竿以外は別の石を乗せたものと思われる。竿には『八幡宮御宝前 安永四未八月吉日 上野国新田郡世良田村』と、奉納期日が示されている。

2007年11月01日(木) No.47 (ものしり知識)

東京ウォーキングマップ


10月28日(日)午前4:45〜5:00のTBSテレビ『東京ウォーキングマップ』で当宮が放送されました。
「未だ見ぬ街の庶民文化」と題して、散歩師の町田忍さん(庶民文化研究家/街頭浪漫研究家)が当地に訪れました。
「誰にでも行ったことはないけれど、気になる街があるはず…」との中島ひろ子さんのナレーションで旅が始まりました。
市内の新島湯、続いて旧例幣使道にある市営トイレ…町田さんは、「マーキング」とおっしゃっていた(笑)
そして、富士重工業群馬製作所本工場、スバル最中を扱う伊勢屋、小林自動車でスバル360を見るなどで番組の前半を終えた。



「…徳川氏発祥の地として有名。少し歩くと見えてきたのは徳川ゆかりの神社。そこは日光東照宮を勧請し、その奥社にあった建物を移築した由緒正しき世良田東照宮。国の重要文化財に指定された宝物を数多く保有している。その境内で町田さんがひっかかったのは…」




…当宮の上番所前にある番人の「顔ハメ」であった。さすが町田さん、見るところが違います(笑)



当宮の拝観もされ、境内にてやきそばを召し上がっておられました。

次に同市徳川町にある満徳寺跡(縁切り寺)の資料館内にある「縁切り・縁結び厠」で祈願。
ここではマーキングはできません。  実は…このトイレでマーキングされたことがある方がいるとか?いないとか? これ以上は、お教えできません(笑)

以上、15分という短い番組ではありましたが、町田さんの個性溢れる散歩に毎週視聴したくなる面白い番組でありました。

その他、番組内で新たに完成した太田駅をバックに「個性も何にも無い太田駅・・・」との発言に笑止。
また、散歩途中で町田さんが発見した「田んぼにカカシ代わりに置かれたヘアカット練習用の顔マネキン」でありますが… これは当地の人間でもあまり見かけませんよ。 あれでは、鳥避けならぬ人避けです(笑)
そして、最後の「今日のおみやげ」で紹介されておりましたが、太田市はやきそばの街なのだそうだ。いったい、いつからなったのであろうか? 勉強になりました。



2007年10月29日(月) No.46 (ものしり知識)

『御宮御神田』神領用水の石橋2


中島藤三郎の言う「新町(現太田市世良田町字新町)の豪家茂木友右衛門が日光例幣使道の三枚橋と他二ヶ所に橋を架け替えた」との記述。 
実は他にも、御宮別当寺であった長楽寺三仏堂の境内に建立されている馬頭観音供養塔には「アーンク 南無大日如来 南無馬頭観世音菩薩 奉納 四国西国 坂東秩父 巡礼供養 寛政四年 壬 子 三月吉日 石橋五ヶ所 上州新田郡世良田 御神領 茂木友左エ門 従日光駅路小角田前 御神領移此処者也」と記されている。

この友右衛門は、石橋だけではなく、寺中万像庵の再築や観音堂の建築も実費で行っている。何故に豪富となったかというと、一説には、ある時に金銀財宝とともに女の首が入った四斗樽が届き、その女の追福のために巨額な金銭を仏具等に喜捨したのだと伝えられる。
観音堂は、三間四面の小堂漆塗りの瓦屋根建物。堂内には百観音の木造が安置されていたそうであるが、明治維新後に友右衛門の一族の建次というものが、財産の傾きで居宅が無くなり、同寺に乞うて観音堂を貰いうけて自分の宅地に移して居住したと伝えられる。

早速、この三ヶ所(三枚橋と他二ヶ所)と五ヶ所の石橋の違いを現地に足を運び調査を試みてみた。


【箇所の石橋】


【2媾蠅寮亢供


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【ゲ媾蠅寮亢供

,了蝶爾魎泙瓩襪罰里に現在も五ヶ所の石橋が残されている。

しかし些か疑問に感じている。昨日のブログにある【 銑ジ什漾確認できる石橋の位置(Map Fan)】http://www.net-you.com/toshogu/sfs6_diary/sfs6_diary/44_2.jpgをご覧になって頂きたい。
,亮┐靴深个瓩瞭擦両部分の箇所が現在も残る例幣使道である。例幣使道はその道が下まで延び、群馬県道312号太田境東線辺りを通行していたのであるが、◆銑イ琉銘屬砲△觚什澆寮亢彊銘屬販稱昌汎擦箸異なっている。
これだけの石橋が例幣使道以外の農道で使用されていたとは考えにくい。「中山道例幣使道分間延絵図」では、例幣使道沿い五ヶ所に石橋があったことが確認できる。
ところが明治9年(1876)10月に書かれた「小角田地租改正図」では、2ヶ所が例幣使道沿いで確認されるものの、その他の橋は道沿いから少し離れた場所での確認となっている。

定かではないが、幕府崩壊の混乱した時代に田畑や民家の位置、農道も変わることで移動されたのではないかと推測する。,龍兇僕僂い蕕譴神个全て揃っているのか、◆銑イ実物の橋を解体後に同じように組み合わせられたものなのかは分からない。今後、専門家の調査によって解明されることを願っている。

2007年10月26日(金) No.45 (ものしり知識)

『御宮御神田』神領用水の石橋1


東照宮神領田絵図
http://www.net-you.com/toshogu/shinryouden.htmlの製作にあたって、様々な参考文献を元に復元させていただいた。その中に「長楽寺懐往襍談/茂木高十郎」がある。これは昭和3年(1928)に完成されたが、刊行されてはいない。その当時、茂木高十郎氏(53歳)が旧御神領の名主の中島藤三郎(89歳)に聞いた話が大部分であるとされている。中島藤三郎は、天保10年(1839)生まれであり、江戸から明治を生きた方である。東照宮文書にも中島藤三郎の名が見えるので、余談であるが記しておく。

● 明治14年(1881)、世良田東照宮総代を世良田村(中島藤三郎・山藤喜三郎)、徳川郷(山鹿安二郎)、上江田村(坂庭新平)、下田中(亀井政太郎)、高尾村(高田円蔵)、小角田村(高柳小四郎・高柳孫三郎・高柳唯七)、西今井村(茂木伝七)、上矢島村(羽鳥保蔵)、花香塚村(正田直平)が勤める。

旧新田庄小角田村は、日光例幣使道が東西に走る村である。小角田の例幣使道は、群馬県道312号太田境東線と国道354バイパス工事などの整備事業により、現在は残念ながら数メートル残っているだけである。
「長楽寺懐往襍談」によると、江戸時代に「新町(現太田市世良田町字新町)の豪家茂木友右衛門が日光例幣使道の三枚橋と他二ヶ所に橋を架け替えた」という記述が出てくる。

          
  【東照宮神領田絵図/三枚橋石橋の位置】

御宮御神田は、東照宮神領田絵図にある小角田地区以外にも、三枚橋の周辺に南北数町に跨っていた。
三枚橋側には三軒屋と称される三軒の家があり、昭和3年時には一軒もなかったそうである。

          
 【 銑ジ什漾確認できる石橋の位置(Map Fan)】

_媾蠅陵0譟⊃凜瓠璽肇觧弔詁光例幣使道の脇に、石橋の残骸が積み上げられている。地元の方の話によると、道路整備により石橋のあった用水路には別のコンクリート橋が架けられたそうで、行き場を無くして畑の角に放置してあるといった状態である。

          
       【_媾蠅諒置された石橋残骸】

しかし、上記写真でもお分かりになって頂けると思うが、大理石を加工した立派な石橋であったと想像できる。
四つの四角い切断面は、水の塞きに使用するために加工された後である。
ここには、他にも石橋を架ける際に土台として用いられた石垣もそのまま残されております。

江戸時代に製作された大理石の石橋が、このように無残に放置されている状態にご覧の方々も心配なされることでありましょう。当宮の方で太田市の文化財保護課への保護要請のご連絡はさせて頂きました。
再現成るのであれば是非に見てみたいものである。

後日、その他の確認を取れた石橋を報告致します。




2007年10月25日(木) No.44 (ものしり知識)

『御宮御神田』⊃昔了


      

         【神領札】

世良田東照宮奉祀にあたり、将軍家は神領内を「守護不入、殺生禁断」の地として保護した。
「守護不入」は、訴訟刑罰等の権力を持った役人であっても領内に於いてはその職権を行使することは出来ない。神領内は神領目代の菊池家がその取締りを担当する。
「殺生禁断」は、神領内での鳥・獣・魚などの狩猟を禁ずることである。

神領田(現 太田市小角田町)の三枚橋東の石田川の川岸とそれより二町西の道北の場所に、高さ7メートル・幅60センチ同文の牓示杭2本が設けられ、札には「これよりどの方 御神領 殺生禁断」と告示され、その大きさから遠方からも確認することができたという。
また、御宮御神領入り口の4箇所にも神領札が設けられていた。(詳しくは、7月4日水曜日のブログ『江戸時代東照宮周辺図⊃昔了1.2』をご覧下さい。)
2007年10月24日(水) No.43 (ものしり知識)

『御宮御神田』仝羌楔羶昔陵竸


      

【御宮神領田図 http://www.net-you.com/toshogu/shinryouden.html

『御宮御神領用水』は、東武伊勢崎線剛史駅の東南に流れる粕川から取水し、伊勢崎線境駅の前を流れ、世良田駅の南に沿って世良田の田畑へ流れている用水である。幕府崩壊後は、「佐波新田用水」と称されている。

      
【剛志駅東南の粕川からの取水位置(Map Fan)】

慶長13年(1608)、用水路の整備や修復、新堀の開削が実施。寛永21年(1644)、世良田に御宮が御鎮座され、御神領二百石の内七十六石が神領田として寄進されると、御宮神領田への水の引き入れとあって『御宮御神領用水』と称されるようになる。

      
【早川に架けられた千貫樋の位置(Map Fan)】

この用水路は、境から世良田への送水の際に早川という川を越えて水を横断させなければならず、「千貫樋」と言われる大型な掛渡井を架していた。

千貫樋の架け替えや修繕は、江戸初期までは幕府により成されている。

元禄12年(1699)、幕府により御神領用水の千貫樋(長27間・高3尺)の掛替え成る。(代官竹村若左エ門)
正徳 4年(1714)、幕府により御神領用水の千貫樋(横6尺・雨除付)の掛替え成る。(代官林甚五右エ門)
享保11年(1726)、幕府により御神領用水の千貫樋の修繕成る。(代官池田新兵衛)
享保14年(1729)、幕府により御神領用水の千貫樋(長24間・高2尺・横4尺)の掛替え成る。(代官池田新兵衛)
元文 2年(1737)、幕府により御神領用水の千貫樋の掛替え成る。(代官石原半衛門)
宝暦12年(1762)、幕府により御神領用水の千貫樋の掛替え成る。(代官伊奈半左エ門)
明和 3年(1766)、幕府により御神領用水の千貫樋の掛替え成る。(代官飯塚伊兵衛)
安永 2年(1773)、御宮別当寺払い下げ木材により御神領用水の千貫樋の掛替え成る。(代官飯塚伊兵衛)
安永 9年(1780)、御宮別当寺払い下げ木材により御神領用水の千貫樋の修繕成る。(代官遠藤兵右エ門)
天明 5年(1785)、御宮別当寺払い下げ木材により御神領用水の千貫樋の修繕成る。(代官遠藤兵右エ門)
寛政 4年(1792)、御宮別当寺払い下げ木材により御神領用水の千貫樋の修繕成る。(代官蓑笠之助)
寛政12年(1800)、御宮別当寺払い下げ木材により御神領用水の千貫樋の修繕成る。(代官野口辰之助)
文化 4年(1807)、御宮別当寺払い下げ木材により御神領用水の千貫樋の修繕成る。(代官山田茂左エ門)

江戸時代、『御宮御神領用水』によって神領田ほか当地(世良田・出塚・粕川)の水田百五十町歩を灌漑し、米作りの生産を支えてきた。




2007年10月22日(月) No.42 (ものしり知識)

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