テレビ放映




9月20日(木)、庶民文化研究家/街頭浪漫研究家である町田忍さんが来宮されました。
町田さんの公式サイトは、こちらをご覧下さい。http://www.edo.net/machida/

当宮に来宮されたのは、TBSテレビ『東京ウォーキングマップ』の番組収録でした。
放送日時は、今月の28日(日)午前4:45〜5:00。
東京ウォーキングマップ製作会社の公式サイトは、こちらをご覧下さい。http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/9848/

放送後に当ブログで再度、内容を報告させて頂きます。
2007年10月18日(木) No.41 (ものしり知識)

世良田東照宮のミステリーな位置


静岡の久能山東照宮の社殿は、徳川氏発祥の地である先祖の地(世良田東照宮)を通り、家康公が鎮まる日光東照宮を向けて造営されていることは、多くの方が承知されていることであろう。

江戸城内西丸北東部の小丘高地の紅葉山に勧請された紅葉山東照宮は、二代将軍秀忠公が日常参拝ができるように造営されたものである。
実はこの紅葉山東照宮の社殿の向きも当地を向けられて造営されていたことは、未だ知らない方も多いと思える。

    

【家康公御遺言 http://www.net-you.com/toshogu/yurai.html

以前、某氏より紅葉山東照宮が世良田東照宮を向けて建立されていたらしいとの話をお聞きしたことがある。
そこで紅葉山東照宮の建立方向の確認をすると共に、久能山から当地を通り日光を指すのであれば紅葉山が当地を通り何所かを指しているであろうという仮説のもとに資料を広げて調査を行ったことがあった。
驚くことに、群馬県赤城村を示していることが分かったのである。

赤城村とは、某番組によって数年に渡り騒がれた埋蔵金伝説の地である。この地は、明治23年に水野智義が古井戸から徳川家康の黄金像を発見したことから現在に至る経緯があり、番組中では埋蔵金は発見されずとも地中に深く掘られた洞窟は明らかになった場所である。

水野家現当主の方とお電話でこの件をお話したことがあったが、何かを意味するものであることは間違いないであろうとの互いの見解であった。

    

また上記の家康公御遺言でも述べているが、紅葉山・世良田・日光が二等辺三角形にもなっている。
日光東照宮表門から表参道に向けての線は江戸をも指している。

社殿配置と様々な線からなるこのミステリー、多くの方々がご調査し報告されてくれることを期待致しております。





2007年10月16日(火) No.40 (ものしり知識)

テレビドラマ主人公と世良田東照宮


水戸黄門が当宮にご来宮された記事を紹介しましたが、他にもテレビ時代劇で知られる有名人が御宮に関係している。

大岡越前守忠相は、TBS系放送「江戸南町奉行 大岡忠相」やテレビ朝日系放送の「名奉行 大岡越前」等で有名である。大岡忠相といえば、山田奉行所にて伊勢の神宮の警備・遷宮の監督・伊勢国幕府領の支配等を務めていた。

  

  【南町奉行所推定図】
   (参照:江戸生活図鑑)

享保元年(1716)8月13日に徳川吉宗公が八代将軍に補任した翌年に、大岡忠相は江戸町奉行に抜擢。町奉行に赴任した2月3日に越前守を名乗り、享保4年(1719)に北町奉行所が南町奉行所に改称。江戸の市政・司法・治安に活躍するとともに名奉行・政治家として人々から尊敬された人物である。

元文元年(1736)に寺社奉行になってからは「暴れん坊 将軍」と共に御宮修復に携わっている。

●寛保3年(1743)4月16日、寺社奉行大岡越前守忠相、御宮修復の見分役を手代児島孫七郎と坂口平六に命じ、諸役人32名程が御宮に来る。6月8日、見分終えて諸役人帰る。


2007年10月15日(月) No.39 (ものしり知識)

金幣御守


当宮で授与される御守りのなかに、『東照宮金幣』という御守りがあります。
本殿に奉幣された金色の幣束(へいそく)を刻み奉書紙に包んだ御守りであり、初詣の元旦から5日までの新年特別祈祷には御札と共に授与されている。

      

       【東照宮金幣御守】

※ 初詣祈祷の詳細はこちらをご覧下さい。
http://www.net-you.com/toshogu/hachiman/index.html

元和3年(1617)、日光東照宮に家康公がお祀りされると、朝廷は勅使を遣わされ奉幣。元和8年(1622)、寛永5年(1628)、寛永9年(1629)、寛永13年(1636)、寛永17年(1640)の御神忌に宣命使を遣わされ奉幣されている。
正保3年(1646)3月10日には参議の持明院基定が臨時奉幣使として日光東照宮へ派遣。以後、翌年4月17日から慶応3年(1867)までの222年間、毎年絶えることなく日光東照宮へ御金幣を奉納されたのである。
前年度に奉幣された御金幣は下げられ、それを小さく刻んで奉書紙に包み、勅使によって一部の者に頒布されました。この御守りを「東照宮金幣」と称し、当時の人々は有難い『金幣御守』として享けたと云われています。

       
        【発見された金幣守】

当宮にはこの『金幣御守』が残されている。現宝物館である建物は、江戸時代には御供所(神饌の調理や直会の場)として幕府により修繕が執り行われてきた。その天井棟木の上から発見されたものである。

       
   【日光東照宮より移された御金幣】

日光東照宮より奥社拝殿等が移遷された際、神宝類と共に『御金幣』も移されている。



2007年10月10日(水) No.38 (ものしり知識)

七五三準備


10月になり当宮も七五三詣の祈祷準備が始まった。

      

   【殿内に置かれた七五三用碁盤】

平安中期より天皇家において執り行われている『碁盤』を使用した儀式には、京都鴨川の青石が持ちいれられている。
碁盤上に置かれた鴨川青石2個を踏みつけ、「えいっ」と声をあげて南側へ飛び降りる。
石を踏むのは罪穢れを取り除く禊(みそぎ)を意味し、飛び降りるのは大地にしっかりと足を付ける意味が込められている。

浩宮徳仁皇太子殿下は、明治神宮の清正の井戸の石を代わりにご使用になられている。

      
       【碁盤上の鴨川青石】
 
数ヶ月前、当宮の崇敬者の方から京都鴨川の青石が届けられました。大変貴重な石であるということで誠に有難く感謝致しております。
また当宮での七五三祈祷で実際に使用して頂きたいとのことで、子供の成長の感謝と健康をご祈念するために、たくさんの子供達に青石を踏んで頂ければ幸いであります。

注意) 碁盤上からの飛び降りは、硬くお断りさせて頂きます。


当宮の七五三祈祷は、ホームページ上の『七五三』http://www.net-you.com/toshogu/shichigosan.htmlと『ものしり知識8月12日』http://www.net-you.com/toshogu/sfs6_diary/sfs6_diary/200708.htmlの記事をご参照下さい。
2007年10月03日(水) No.37 (ものしり知識)

最古の東照宮社殿と彫刻


徳川家康公の嗜みとして有名なものが『鷹狩り』である。生涯1000回以上は楽しまれたとさけている。またそのことで、家康公と鷹狩りの伝承は各地に多く残されてもいる。
家康公が鷹狩りを好むのは、単に遊びを目的としてだけではなく、遠地へ赴き農民の生活ぶりや苦労を知るため。そして身体を動かすことで健康に気を使っていたためであった。


【拝殿正面蟇股の彫刻『松に鷹』】

世良田東照宮拝殿は、元和3年(1617)に日光東照宮創建時に竣工したものを当地に移築した、最古の東照大権現を拝礼するための社殿である。
故に最初の社殿には、公の好きな『鷹』の彫刻が設けられたのである。

元和の幕府大工頭は、伏見城・増上寺・二条城・名古屋城・方広寺大仏殿・禁裏御所・江戸城天守閣・仙洞御所などを手がけた建築界の一台巨匠である中井大和守正清である。
正清は元和5年(1619)1月21日に逝去され、世良田東照宮に残る拝殿が正清の最後の作と云われている。


【拝殿背面蟇股の彫刻『松に鷹』】

『松に鷹』の彫刻に関し、中井家文書に以下の文が見て取れる。

かりとの、ふん(仮殿の分)
一、 壱枚 南西ノかへるまた(蟇股) まつにたか(松に鷹)  拾三人
一、 壱枚 かたふたノかへるまた(蟇股) まつ二つか(松に鷹) 八人

とある。この時にに作られた彫刻は57枚であり、その中で『松に鷹』の彫刻はこの二枚のみである。
日光東照社は、元和3年(1617)3月15日に竣工。(この時の彫刻職人は延べ3468人)
その後、家康公の御遺骸は久能山を発ち、4月4日に日光東照社仮殿へ外遷宮なされている。

この時の仮殿が後に日光東照宮奥社拝殿となり、世良田へ移築されたものとなる。

2007年09月28日(金) No.36 (ものしり知識)

御宮付御医師


新説!?みのもんたの日本ミステリー!〜失われた真実に迫る!〜 第三弾


昨日、午後8時45分から放送の『新説!?みのもんたの日本ミステリー!
〜失われた真実に迫る!〜 第三弾』に当宮が放送されました。
   

司会は、みのもんた/森本智子(テレビ東京アナウンサー)。ゲストに若林豪・沢村一樹・渡辺満里奈・松島尚美(オセロ)・北斗晶・荒俣宏です。
   
ミステリーファイル13『武田信玄と徳川家康は父子だった!?』と題された一つのミステリー内に取り上げられたものである。
   
歴史研究家である杉山光男氏ご来宮のもと撮影が行われ、番組中では

“この暗号から浮かび上がる世良田東照宮に全ての謎を解く鍵が存在するのではないか・・・”

と、ナレター小林清志氏により流され、当宮の映像へとなるものであった。

2007年09月22日(土) No.34 (ものしり知識)

水戸黄門


テレビでお馴染みの水戸黄門。実は当宮にも随分と昔に来宮されております。
現在TBSで放送中の第37部水戸黄門ですが、当宮の話が放映されたのは昭和52年(1977)1月3日のことであります。

第7部33話「十七年目の泣き笑い―伊勢崎−」。
出演者は、水戸光圀:東野英治郎、佐々木助三郎:里見浩太朗、渥美格之進:横内 正、風車の弥七:中谷一郎、うっかり八兵衛:高橋元太郎、霞のお新:宮園純子、おてる:由美かおる、一八:フランキー堺。

格 「日光例弊使街道?」「おいっ!」  
助 「ん?日光例弊使街道・・・」「あっ!!」
格 「その境の宿に、東照宮があるぞっ!」
助 「しまったぁ〜、そこだっ!」「例によってご隠居の “ちょっと寄ってお参りを” だ!」
助 「格さんっ!」  
格 「おーっ!」「おい、その別れ道から横に入れっ!それで利根川を渡れば日光例弊使街道だっ!」

助格八 「ご隠居〜」
助 「お見えになっておらんなぁ〜」」

   3人参拝

八 「もう、行っちゃったのかもしれませんね」
格 「いや、そんなはずはない」

弥 「その通りでぃ」
助 「弥七か? どこだっ!」
弥 「ずうっと、居ましたぜっ!」「まだ、お出でになっておられねぇよ!」
八 「じゃぁ親分は、はなっからご隠居がここにお出でになると?」
弥 「あたりめぇだっ!」
「この辺にお出でになりぁ〜ここにお出でとピーンと来なくちゃぁ、ご隠居のお供はモグリだぜっ!」
「いいか? この辺りの地名は・・・徳川ってんだっ!」
八 「徳川〜?」「ピーンと来なくちゃピーンとっ!」
助 「やかましいっ!」
格 「とにかく、まだだとすると街道の途中かもしれんぞっ!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

というお話であった。利根川から当宮へのコースも些か遠回りのようである。
また、弥七の台詞は当時の流行言葉であろうか? 御宮の屋根に身を潜めていたところも面白い。
更に申し上げれば、映し出されている神社は実は世良田東照宮ではないのである。紀州か日吉とも思えるが定かではない。当宮とは別の神社のロケーションである。

また、以前にも当サイトでご紹介させて頂いたが「水戸黄門東上州漫遊記」という小説が発売され、やはり当宮に水戸黄門一行が参拝されている。 執筆時に当宮へお声をかけて頂ければ、より忠実に尚且つ面白い話をご提供が出来たことと残念には思っている。
2007年09月21日(金) No.33 (ものしり知識)

ミステリー


『“みのもんたの日本ミステリー!3”オススメ』の予告番組では、当宮は確認できませんでしたね。
さて、どのミステリーファイルに出てくるのでしょうか。UFО? 竜宮城?・・・・ミステリーですから、どのファイルでも可能性はあります。

隆慶一郎氏著の時代小説『影武者徳川家康』。これもミステリーでありました。1993年に発行された上・中・下巻。そして原哲夫氏により漫画化。1998年にはテレビ朝日によりドラマ化されました。
そもそもは、明治35年(1902)に村岡素一郎という者が『史疑徳川家康事蹟』というミステリー小説を出版したことから始まる。これにより、隆慶一郎氏ほか大勢の方が家康公影武者説を説くようになりました。

未だにそれが真実かのように思われている方々がおられるようであります。それを信じるか否かは別としまして・・・『世良田二郎三郎』という名が出てくることは当地にとっては嬉しいことであります。 
これらの作家の方々は、この『世良田二郎三郎』という名を果たしてどこから出現させたのでありましょうか? そして何故、『世良田氏』名を影武者の名にしたのでしょうか? 
これが本当のミステリーです。

世良田二郎三郎に関しては、8月1日(水)のブログ『世良田氏の子孫はどこに』をご覧下さい。

※『みのもんたの日本ミステリー!3』 
http://www.tv-tokyo.co.jp/nihonmystery3/
2007年09月19日(水) No.32 (ものしり知識)

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