群馬県で最初の自動車お祓い所


世良田東照宮の『交通安全祈願』と『自動車のお祓い』の始まりは古く、『自動車の清祓所』を設けての交通安全祈願は昭和52年(1977)より行われ、群馬県では最初の『自動車専門の清祓い所』である。

    

       【写真 

写真,蓮⊂赦贈毅看(1979)12月2日(日)午後2時から行われた交通安全祈願と自動車のお祓いの様子であるが、多勢の運転手とご家族が左側に立ち、頭を下げている姿が見て取れる。
祓い所の四隅には、杜より切り出された神聖な木が建てられ、注連縄が一周廻らせされている。
この日の祈願祭は、車の台数が多く、祓い所への進入は順番待ちであったという。

    
       【写真◆

写真△聾什澆痢惻動車清祓所』である。詳しくは、ホームページ内『祈祷ページ』http://www.net-you.com/toshogu/gokitoh.htmlをご覧下さい。
2007年08月17日(金) No.21 (ものしり知識)

碁盤上での七五三祈祷 


『 Q1:  天皇家の儀式では? 』
『 Q2:  碁盤上での七五三祈祷をする神社は? 』

    


A1: 
3歳(数え5歳)になると天皇から贈られた袴を着ける着袴の儀が行われています。その後、衣装を改めて碁盤上に立ち、髪の先に三度ハサミを入れる髪置きの祝いが行われます。碁盤上には京都鴨川の青石を置き、それを踏みつけて「えいっ」と声をあげながら南に飛び降り床に立つ儀式が行われています。
皇子は半尻(はんじり)に前張り袴、皇女は袙(あこめ)の装束を着用とし、江戸初期から伝統に則った着袴の儀が行われています。明治時代までは深曽木の儀も行われていた。

A2:
関東では、世良田東照宮と東京千代田区に鎮座する日枝神社のみである。
当宮が七五三の起源を調査研究し碁盤を使用したのが昭和55年(1980)の11月からに対して、日枝神社はその前年度から碁盤を取り入れている。
何故、日枝神社でこの儀式が行われているかというと、江戸時代に徳川五代将軍綱吉公の子である徳松君が祝祈願を行ったとされる神社がこの日枝神社なのである。それを機に諸大名・旗本などの武家で行われるようになり、商家を中心とする一般家庭に浸透していったと言って良い。七五三詣を発祥した神社である。
当宮の七五三祈祷に関しては、ホームページ内『七五三ページ』http://www.net-you.com/toshogu/shichigosan.html
をご覧になって下さい。

現在では、七五三祈祷を行っているお寺もあるようであるが、本来は神社での祝いの儀式であるということを知っておいて頂きたい。同じ関東であっても遠方のため来宮出来ない方は、その由緒により碁盤上での儀式は出来ませんが、お子様の成長を祝う素晴らしい七五三祈祷がお近くの神社でも行っておりますのでお探し頂ければと思います。

2007年08月12日(日) No.20 (ものしり知識)

碁盤上での七五三祈祷 


『 Q: 昔の祝いとは? 』



【髪置(かみおき)の儀】
幼児が初めて髪を伸ばす儀式で、生糸で作られた白髪を被せ祝う。また碁盤上に座らせて、子供の髪に縁起物を結び祝う。
この儀式は、平安時代の中頃から見え、公家は2歳、武家は3歳に行われた。徳川家では儀式終了後に東照宮に参詣している。

【深曽木(ふかそぎ)の儀】
碁盤上に立ち、髪を切り揃える祝い。
この儀式は、平安時代に見え、3歳の髪置きの後に男児は5歳、女児は4歳にて行われた。
江戸時代には碁盤上の左右に青石または碁石を置き、踏んで立たせた。

【着袴(ちゃっこ)の儀】
男女3歳から8歳、後に5歳から7歳にて碁盤上で始めて袴を着ける祝い。その際、男児は父親、女児は母親が中心となり袴を着ける。
平安時代中頃には身分のある人が行い、鎌倉時代には武家が行う。男児は裃を着用し、女児は緋袴を着用。一般の女児はこの儀式は行わなかった。

【着裳(ちゃくも)の儀】
12歳、14歳の女児が成長して初めて裳を着る祝い。
平安時代より見え、身分のある人のみ行われた。

【帯解(おびとき)の儀】
着袴の儀にて着けた装束の紐を大人と同じように腰で帯締めをする祝い。帯び直し、帯び落とし、紐直しなどとも呼ばれる。
2007年08月11日(土) No.19 (ものしり知識)

碁盤上での七五三祈祷 


『 Q: 何故、世良田東照宮の七五三祈祷は碁盤に上がるのか? 』



本儀式は平安時代に公家等によって始められ、武家がそれに倣い、江戸時代に徳川家により執り行われた儀式である。
近年の晴れ着を着用して神社へお参りする風習は明治以降のことで、大正時代になって一般化され、盛んになったといえる。

現在での七五三は神社へお参りをし、子供の育成を祈願する人生儀礼の一つとなっているが、その起源を溯り、それに関係する祝いと成長を願う儀式が他にもあるのではないかと当宮独自で調査したところ、碁盤上に上がっての祈願を執り行っていたことが判明した。
当宮が将軍家や天皇家と深い関わりある由緒により、昭和55年(1980)から碁盤上での七五三祈祷を執り行っている。
2007年08月10日(金) No.18 (ものしり知識)

世良田氏の子孫はどこに


徳川家康公遠祖にあたる新田始祖義重公の子義季公が徳川・世良田郷を領し、徳川・世良田氏を称したことから当地は徳川氏発祥の地として周知の通りであります。
また、松平泰親公は「世良田三河守」、松平信光公は「世良田二郎三郎」、松平清康公は「世良田次郎三郎」、家康公第四子忠吉公は「世良田下野守」、尾張家三代綱誠公は元服時に「世良田」、徳川家継公は御幼名時に「世良田鍋松」と先祖の名字である世良田姓を称されています。

家康公による『御遺状御宝蔵入百箇條』によれば、「我、清和源氏の苗流れに生まれるといえども参州松平の姓、敵国の為に侵されて永いこと固められていた。今かたじけなくも天恩に俗し、世良田・徳川・新田の先祖の偉業と同じように回復できた。こりより代々この四姓をもって互いに称すべし。慎終追遠の教えの裏にでるようなことがあってはならない。」ともいわれている。

平成10年に当宮禰宜が「現在、徳川家康公の遠祖である新田一族世良田氏の子孫は何処に居られるのだろうか」と調査を試み、報告を『全国東照宮連合会会報 第33号』等に掲載しています。

結果、当時全国に世良田氏が約120世帯・その他に良田氏や瀬良田氏が約30世帯居られることが判明しました。
地域的分布は、関東から九州にかけが非常に多く、何れの地も南北朝の戦いの転戦地ごとが中心であることが分かっている。

現在、当地には世良田氏はおられない。新田義貞公が逝去され幕は閉じたかにみえますが、室町幕府の命による新田一族残党追捕があったことの末といっても良いでしょう。
新田一族の世良田氏は幕府に追われ、それぞれの故郷をしのぎ捨てて僻遠の地へ逃れ隠棲せねばなりませんでした。
戦地ごとに現在も子孫が居られるということは、一族姓を一時改称するなどしてその地に土着したものではないでしょうか。


調査報告後、当地の紹介と家系の問い合わせも試み、数件の回答を得ることができました。また当地の姓であるとして御参拝される方もおられ、お話をお伺いなどして現在も調査を継続しております。
2007年08月01日(水) No.17 (ものしり知識)

異例の御宮祭典


慶応元年(1865)4月17日、東照公第250回忌の祭典が日光東照宮で執り行われた。
この場合は世良田東照宮に於いては、一ヶ月前の3月17日の祭典となる。
しかし今回の回忌祭典は、それまでの祭典は異なりより厳重な警備が強いられていたようである。
その原因は、水戸の天狗党が東照宮前を通行するといった事件が起こったためである。

元治元年(1864)11月11日に水戸の天狗党が太田に入り、13日に太田を出て木崎宿へ入る。一行は例弊使街道通行を変更し、中江田(太田市新田中江田町)から世良田(太田市世良田町)を通り、平塚河岸(伊勢崎市境平塚町)へと通行することとなる。幕府は、近隣の伊勢崎藩北爪金三郎に東照宮警護を命じた。各通行予定地にも藩が警備に入っていたことは言うまでもない。
一向は無事通行。東照宮への被害は何事も無かったたようである。

この一件で、世相の不穏から御宮祭典が異例な警備体制となったのであった。

○ 元治2年(1865)3月13日、東照宮祭典に備え、岩松家から派遣された藤生友之助や広瀬敬之助の両取締役のもと、三仏堂北西の所に警備詰所建設の工事が雨のなか開始。
               
○ 元治2年(1865)3月14日、夕方、詰所完成。取締役、警備に要する武具や諸道具を運び込むよう命ずる。

○ 元治2年(1865)3月15日、早朝から弓・槍・鉄砲など用意。取締役の広瀬、伊勢崎藩の詰所に出頭し、指揮者の目代菊池武貞と会見。両者が協力し東照宮の警備をこれまで以上に厳しくしていくことを論議。

○ 元治2年(1865)3月16日、岩松満次郎の指示のもと、番頭(関根高之助・田中司)、番目付(金井肇・広瀬伝)、添番(藤生元太郎・茂木吉之進)、徒士(登沢恒吉・近藤庄吉・倉上源次郎・小暮銀蔵)、足軽4人と6人の仲間など合わせて20人の隊員が詰所に出勤。
            
○ 元治2年(1865)3月17日、世良田東照宮、東照公第二百五十回忌につき1ヵ月前の祭典。岩松満次郎の名代として、家臣の畑織之輔が若党と草履取りを従えて金二〇〇疋を東照宮へ奉納。


と、一部抜粋して記してみましたが、鉄砲までもが用意されるなど武装した者の厳重な警備の中の祭典が行われたのでした。
この時の「元治2年世良田東照宮 御神忌中御護衛に付き、取扱一件帳」が群馬大学付属図書館に所蔵されている。
2007年07月28日(土) No.16 (ものしり知識)

江戸時代東照宮周辺図─ 惴羌椶両緘崕蠅伐屡崕蝓



【‐緘崕蝓Ν下番所】

御宮上下番所は、御宮創建時に幕府により建てられた。江戸時代東照宮周辺図 愴つの門』項△任盻劼戮燭茲Δ法∧疹錣遼媛个篆緞匹稜ぬ魁祭典時や修復期間中の警護のための勤番所が設けられていた。

上番所・・・間口二間、奥行一間半。諸道具は、三ツ道具とう突棒(つくぼう)・刺股(さすまた)・袖搦(そでがらみ)、鳶口3本、棒10本が置かれていた。
下番所

何れも、川南(埼玉県深谷市)の12ヶ村、川南11ヶ村(群馬県太田市)と6ヶ村(群馬県伊勢崎市)が昼夜交代で出仕し御宮の警備についた。

神領内で火災が起きると、火の番は火消し道具を取って駆けつけた。火消し道具とは、大団扇のことで、6尺から7尺の長柄の先に表面を黒漆で染め、白字で記したものであったとのことである。この大団扇を使い、火の手に向けて数100人が一団となり、火勢を彼方へ扇ぎ返すという趣向であった。

御宮の修復期間中は更に番所は増え、自費にて1ヶ所5両ほどで仮に建設された。
○ 御宮鳥居南方・・・・間口三間、奥行一間
○ 御宮表門前・・・・・間口四間、奥行三間
○ 御宮仮殿前・・・・・間口二間、奥行一間半
○ 平塚材木揚場・・・・間口四間四方
○ 太鼓門前・・・・・・間口四間、奥行一間
○ 小屋場入り口・・・・間口一間四方
○ 材木置場の三仏堂

2007年07月27日(金) No.15 (ものしり知識)

太田かるたの誤記


歴史の解釈と判断というのは、難しいものです。本屋さんで並んでいる本やテレビ時代劇で放送されている内容というのは、必ずしも正しいものではありません。もちろん各市町村発行のものもそうです。全国の神社寺院、史跡等の表記においても、それが全て正しいものと認識せず、自ら調査研究していく必要があります。

本日は、『太田かるた』について述べさせてもらいます。

平成17年3月28日、当地新田郡尾島町世良田は太田市世良田町として市町村合併を致しました。
翌年11月に市民憲章の普及推進の一環として、太田市かるたというものが製作販売(525円)されております。

当サイトでも報告致しましたが、東照宮も『と』の読札として取り上げられました。
その後、説明文を見て驚かされました。なんと和暦が間違っているではありませんか。
東照宮の正遷宮は21年(1644)10月11日です。しかし、正保元年(1644)と明記されているのです。

これをお読みのたくさんの方は、おそらく単なるミスプリントであると感じるかと思いますが、この説明文に関しては一切に当宮が関わっていなかったことなのです。
当宮に校正依頼もなく、作成委員会がご担当されて、その方々の解釈のみで作成されていたものだったのです。

市民からは、この件の電話や来宮時でご指摘されて、大変困りました。

もちろん当宮のことでありますので市民推進課の方へご指摘させてもらい、増版の際には当宮校正の元に新たに作成させてもらうことをお願い致しましたので、次回製作時には正式なものが出来上がっているのであろうと期待しております。

ご迷惑おかけしましたこと心からお詫び申し上げます。この件は、また後日にこちらで報告させてもらいます。


2007年07月27日(金) No.14 (ものしり知識)

江戸時代東照宮周辺図А 惴羔/絨羝佑噺羔―蝓


※以下 ○印…御供水井戸 / ●印…御供所

○御供水井戸は、御宮創建時に幕府により掘られた井戸で、神前に供えるための水を汲むために用いられていた。享保19年、昭和57年に崩埋したが、その都度再建がなり現在に至る。近年は、由緒正しき御神水として「お水取り」に来宮される方が増えている。

●御供所は、御宮創建時に幕府により建立。神前へのお供えを調理する場や徹した御神酒を頂戴する直会場であった。昭和39年より日光東照宮から建物とともに移築された御宝物を陳列する宝物館として現在に至る。



○ 正徳4年(1714)7月21日、七代家継公、世良田東照宮大修復。外遷宮。家康公着初め鎧の箱・御宮供水井戸、新規に造替え成る。

○ 享保19年(1734)、御宮御供水井戸、崩埋に付き修繕願い出す。

○● 元文 元年(1736)9月17日、世良田東照宮正遷宮。本殿・唐門・瑞籬・拝殿・鳥居・御黒門・本地塔・御供所・御供水井戸・稲荷社・比叡社をはじめ、東照宮付属建造物として長楽寺御宝蔵・上使門・太鼓門・三仏堂・蓮池橋などの諸堂社が修復された。

● 宝暦9年(1759)11月18日 、利金79両をもって御宮本殿(屋根上屋を杉皮で覆う)・御拝殿・御唐門塀・御供所・番所・表塀(板囲い)等の仮繕成る。

● 明和3年(1766)5月27日、世良田東照宮修復にあたり、諸役人拝礼。終えて御供所にて神前にお供えした御神酒を下げ御神酒頂戴。葵御紋付の三方に乗った土器にて一同拝戴。土器は拝戴者がそのまま懐に入れてお開きとする。

● 天保14年(1843)2月、東照宮御供所、倒壊。

● 天保15年(1844)4月18日、東照宮御供所の新築工事始まる。

● 天保15年(1844)5月13日、御仮殿(兼御供所)新築成る。

○ 昭和57年(1982)8月、世良田東照宮御供水井戸、崩没する。

○ 平成15年(2003)12月15日、世良田東照宮「御供水井戸」再建成る。
2007年07月25日(水) No.13 (ものしり知識)

世良田東照宮屋根と神社の銅葺き屋根


     

【手前:唐門屋根/奥:本殿屋根】

現在、様々な理由により瓦葺きの屋根の神社もあるようであるが、世良田東照宮では瓦葺きが禁止されていた。
御宮創建当初は、全てが檜皮葺き(ひわだぶき)の屋根であったが、寛政8年(1796)の大修復時に銅葺きに改修され、現在も銅葺き黒漆塗り金箔押で仕上げられている。

そもそも瓦葺きの屋根とは、江戸時代中期までは武士・江戸や街道沿いの町屋以外の家での使用は禁止。寛政4年(1792)になり瓦屋根が庶民にも認められ普及していったようである。

手元資料に、御宮の瓦屋根に纏わる記録があるので紹介する。
『天保15年(1844)5月15日、御宮外遷宮参詣にあたり副奉行作事奉行堀伊賀守利堅の代参として目付井戸大内蔵覚弘と一行28名が来る。(代参になったのは5日前に江戸城本丸が炎上のためである)村役人は中瀬(深谷市)まで、年行事と用部屋領分は境(伊勢崎市)まで出迎え。御宮着き、一同拝礼。
天保15年(1844)5月16日、目付井戸大内蔵覚弘の家臣、太刀・馬代として白銀射1枚と進献物(三束三巻樽肴膳菓子)を献備。此の夜、東照宮様の御仮殿屋根へ土を上げる事もってのほかとして、瓦葺きから板葺きへと改修。』
とあり、翌17日牛刻の御宮外遷宮までには板葺きへと改修されたのであろう。18日、御宮引渡し式。27日、御釿始式が斎行。9月3日に正遷宮が執り行われている。

瓦葺き屋根は、神社全般に於いては古来より使われる伝統がなかったことと、仏教伝来より寺院建築が瓦屋根の使用をしているところからか好まれなかったなどと言われているが、上記でもあるように『神様が祀られる建物に土を被せることは論外』ということが本来の意であるのであろう。
2007年07月16日(月) No.12 (ものしり知識)

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