世良田東照宮の竣工と正遷宮


【現在、世良田東照宮の正遷宮は、寛永21年(1644)10月11日としているが、本来はその前年度の予定であったのかもしれない】

まず、正確な御宮竣工日というのは定かではないのだが、昭和39年時の御宮修復時に、拝殿正面蟇股上巻斗より『日光より御被下申候也 午六月十五日取付』の墨書銘と同背面蟇股上巻斗より「午六月十五日 二 是ら御取付候也 北」の墨書銘が発見されている。

また天海大僧正は御宮竣工にあたり請願し、後水尾上皇から世良田東照宮へ勅額が下賜されている。勅額裏面には『太上皇宸筆寛永十九年壬午暦良田山天海大僧正奏達而以今刻彫焉』との刻銘がある。

寛永20年(1643)9月17日には、天海大僧正から『毎年四月十七日、東照権現講、諸末寺諸門徒等出仕をいたし、十六日の夜論議、十七日、法会を勤むべし、もし不参の者においては金壱両過料たるべき事・・・』と祭典にあたっての掟が発布されている。同日に御宮別当寺である長楽寺が御宮勧請に伴い、寺内法度が出され臨済宗から天台宗に改修される。

日光東照宮の大造替状況との比較。そして上記の事からしても寛永19年(1642)から寛永20年(1643)内に竣工したのではと推測できる。

では何故? 御宮が竣工されているにも関わらず正遷宮が約一年先送りとなってしまったのであろうか。
実は、天海大僧正が掟を発布後の10月2日に遷化(108歳)されたのである。
世良田東照宮が天海大僧正が携る最後の御宮となった分けであるが、仮に月日が数日ずれていれば、寛永20年(1643)10月17日あたりが本来の正遷宮日になっていたのかもしれない。




 
2007年08月23日(木) No.23 (ものしり知識)

群馬県一巨木な神域桜


当宮の国指定史跡である境内地に植樹されている桜(ソメイヨシノ)には、胸高周囲3.50メートルを越す巨木な桜があります。

ソメイヨシノの寿命は約40年から60年といわれております。これはソメイヨシノの子房は不稔性で子孫をつくる能力は無く、自力で繁殖することはできないからとのことからです。
しかし当宮の神域で見られるソメイヨシノでは、桜の自力での樹勢回復が行われていることが確認されております。

      

         【写真 

写真,任分かりの通り、寿命60年とされる元々の桜の内部を活用し、新しい子孫が生み出されているのです。

この写真,蓮⊃年前までは空洞部分に覆いかぶさるように枝がありました。しかし長い年月により腐敗、余儀なく切断をすることとなりました。
幹内には腐敗した大鋸屑が密集、雨の浸入により更なる腐敗を抑えるため、それらを全て取り除いたものです。
おそらく腐敗した大鋸屑が肥料の役割を果たし、発芽の栄養源と保護が成されたことによる結果なのでしょう。何れにしろ、ソメイヨシノに適した環境にあったということは間違いありません。

       
      【写真↓ 群馬県一巨木な神域桜】

写真↓は、群馬県内では一番巨木なソメイヨシノである。

●根元周囲・・・4.40メートル
●胸高周囲・・・3.60メートル
●目通周囲・・・3.60メートル
●枝張東西・・・20.00メートル
●枝張南北・・・20.00メートル
●樹   高・・・20.00メートル
●樹齢推定・・・不明

写真の幹は、表面に幹が幾重にも重なりあっているのが分かります。おそらく内部に新たに生まれた幹が太くなり、元々の桜の樹皮を押し広げながら一体となっていっているのでありましょう。それらは、現在でも樹皮のひび割れを起こしながら成長をしております。

東照宮神域にあるソメイヨシノは、この他にも十数本生息している。何れも巨木であり、春には境内のどこを見上げても、埋め尽くす程の花を咲かせてくれる。公園や河川敷に人寄せに植樹された桜とは異なり、国指定重要文化財の社殿との調和はもちろんのこと、神域におけるご神徳の現われであることは来宮されて頂ければお分かりになっていただけるでしょう。

注:) 当宮境内地に於いての酒宴やシートを敷いての食事等はお断り致します。


2007年08月21日(火) No.22 (ものしり知識)

群馬県で最初の自動車お祓い所


世良田東照宮の『交通安全祈願』と『自動車のお祓い』の始まりは古く、『自動車の清祓所』を設けての交通安全祈願は昭和52年(1977)より行われ、群馬県では最初の『自動車専門の清祓い所』である。

    

       【写真 

写真,蓮⊂赦贈毅看(1979)12月2日(日)午後2時から行われた交通安全祈願と自動車のお祓いの様子であるが、多勢の運転手とご家族が左側に立ち、頭を下げている姿が見て取れる。
祓い所の四隅には、杜より切り出された神聖な木が建てられ、注連縄が一周廻らせされている。
この日の祈願祭は、車の台数が多く、祓い所への進入は順番待ちであったという。

    
       【写真◆

写真△聾什澆痢惻動車清祓所』である。詳しくは、ホームページ内『祈祷ページ』http://www.net-you.com/toshogu/gokitoh.htmlをご覧下さい。
2007年08月17日(金) No.21 (ものしり知識)

碁盤上での七五三祈祷 


『 Q1:  天皇家の儀式では? 』
『 Q2:  碁盤上での七五三祈祷をする神社は? 』

    


A1: 
3歳(数え5歳)になると天皇から贈られた袴を着ける着袴の儀が行われています。その後、衣装を改めて碁盤上に立ち、髪の先に三度ハサミを入れる髪置きの祝いが行われます。碁盤上には京都鴨川の青石を置き、それを踏みつけて「えいっ」と声をあげながら南に飛び降り床に立つ儀式が行われています。
皇子は半尻(はんじり)に前張り袴、皇女は袙(あこめ)の装束を着用とし、江戸初期から伝統に則った着袴の儀が行われています。明治時代までは深曽木の儀も行われていた。

A2:
関東では、世良田東照宮と東京千代田区に鎮座する日枝神社のみである。
当宮が七五三の起源を調査研究し碁盤を使用したのが昭和55年(1980)の11月からに対して、日枝神社はその前年度から碁盤を取り入れている。
何故、日枝神社でこの儀式が行われているかというと、江戸時代に徳川五代将軍綱吉公の子である徳松君が祝祈願を行ったとされる神社がこの日枝神社なのである。それを機に諸大名・旗本などの武家で行われるようになり、商家を中心とする一般家庭に浸透していったと言って良い。七五三詣を発祥した神社である。
当宮の七五三祈祷に関しては、ホームページ内『七五三ページ』http://www.net-you.com/toshogu/shichigosan.html
をご覧になって下さい。

現在では、七五三祈祷を行っているお寺もあるようであるが、本来は神社での祝いの儀式であるということを知っておいて頂きたい。同じ関東であっても遠方のため来宮出来ない方は、その由緒により碁盤上での儀式は出来ませんが、お子様の成長を祝う素晴らしい七五三祈祷がお近くの神社でも行っておりますのでお探し頂ければと思います。

2007年08月12日(日) No.20 (ものしり知識)

碁盤上での七五三祈祷 


『 Q: 昔の祝いとは? 』



【髪置(かみおき)の儀】
幼児が初めて髪を伸ばす儀式で、生糸で作られた白髪を被せ祝う。また碁盤上に座らせて、子供の髪に縁起物を結び祝う。
この儀式は、平安時代の中頃から見え、公家は2歳、武家は3歳に行われた。徳川家では儀式終了後に東照宮に参詣している。

【深曽木(ふかそぎ)の儀】
碁盤上に立ち、髪を切り揃える祝い。
この儀式は、平安時代に見え、3歳の髪置きの後に男児は5歳、女児は4歳にて行われた。
江戸時代には碁盤上の左右に青石または碁石を置き、踏んで立たせた。

【着袴(ちゃっこ)の儀】
男女3歳から8歳、後に5歳から7歳にて碁盤上で始めて袴を着ける祝い。その際、男児は父親、女児は母親が中心となり袴を着ける。
平安時代中頃には身分のある人が行い、鎌倉時代には武家が行う。男児は裃を着用し、女児は緋袴を着用。一般の女児はこの儀式は行わなかった。

【着裳(ちゃくも)の儀】
12歳、14歳の女児が成長して初めて裳を着る祝い。
平安時代より見え、身分のある人のみ行われた。

【帯解(おびとき)の儀】
着袴の儀にて着けた装束の紐を大人と同じように腰で帯締めをする祝い。帯び直し、帯び落とし、紐直しなどとも呼ばれる。
2007年08月11日(土) No.19 (ものしり知識)

碁盤上での七五三祈祷 


『 Q: 何故、世良田東照宮の七五三祈祷は碁盤に上がるのか? 』



本儀式は平安時代に公家等によって始められ、武家がそれに倣い、江戸時代に徳川家により執り行われた儀式である。
近年の晴れ着を着用して神社へお参りする風習は明治以降のことで、大正時代になって一般化され、盛んになったといえる。

現在での七五三は神社へお参りをし、子供の育成を祈願する人生儀礼の一つとなっているが、その起源を溯り、それに関係する祝いと成長を願う儀式が他にもあるのではないかと当宮独自で調査したところ、碁盤上に上がっての祈願を執り行っていたことが判明した。
当宮が将軍家や天皇家と深い関わりある由緒により、昭和55年(1980)から碁盤上での七五三祈祷を執り行っている。
2007年08月10日(金) No.18 (ものしり知識)

世良田氏の子孫はどこに


徳川家康公遠祖にあたる新田始祖義重公の子義季公が徳川・世良田郷を領し、徳川・世良田氏を称したことから当地は徳川氏発祥の地として周知の通りであります。
また、松平泰親公は「世良田三河守」、松平信光公は「世良田二郎三郎」、松平清康公は「世良田次郎三郎」、家康公第四子忠吉公は「世良田下野守」、尾張家三代綱誠公は元服時に「世良田」、徳川家継公は御幼名時に「世良田鍋松」と先祖の名字である世良田姓を称されています。

家康公による『御遺状御宝蔵入百箇條』によれば、「我、清和源氏の苗流れに生まれるといえども参州松平の姓、敵国の為に侵されて永いこと固められていた。今かたじけなくも天恩に俗し、世良田・徳川・新田の先祖の偉業と同じように回復できた。こりより代々この四姓をもって互いに称すべし。慎終追遠の教えの裏にでるようなことがあってはならない。」ともいわれている。

平成10年に当宮禰宜が「現在、徳川家康公の遠祖である新田一族世良田氏の子孫は何処に居られるのだろうか」と調査を試み、報告を『全国東照宮連合会会報 第33号』等に掲載しています。

結果、当時全国に世良田氏が約120世帯・その他に良田氏や瀬良田氏が約30世帯居られることが判明しました。
地域的分布は、関東から九州にかけが非常に多く、何れの地も南北朝の戦いの転戦地ごとが中心であることが分かっている。

現在、当地には世良田氏はおられない。新田義貞公が逝去され幕は閉じたかにみえますが、室町幕府の命による新田一族残党追捕があったことの末といっても良いでしょう。
新田一族の世良田氏は幕府に追われ、それぞれの故郷をしのぎ捨てて僻遠の地へ逃れ隠棲せねばなりませんでした。
戦地ごとに現在も子孫が居られるということは、一族姓を一時改称するなどしてその地に土着したものではないでしょうか。


調査報告後、当地の紹介と家系の問い合わせも試み、数件の回答を得ることができました。また当地の姓であるとして御参拝される方もおられ、お話をお伺いなどして現在も調査を継続しております。
2007年08月01日(水) No.17 (ものしり知識)

異例の御宮祭典


慶応元年(1865)4月17日、東照公第250回忌の祭典が日光東照宮で執り行われた。
この場合は世良田東照宮に於いては、一ヶ月前の3月17日の祭典となる。
しかし今回の回忌祭典は、それまでの祭典は異なりより厳重な警備が強いられていたようである。
その原因は、水戸の天狗党が東照宮前を通行するといった事件が起こったためである。

元治元年(1864)11月11日に水戸の天狗党が太田に入り、13日に太田を出て木崎宿へ入る。一行は例弊使街道通行を変更し、中江田(太田市新田中江田町)から世良田(太田市世良田町)を通り、平塚河岸(伊勢崎市境平塚町)へと通行することとなる。幕府は、近隣の伊勢崎藩北爪金三郎に東照宮警護を命じた。各通行予定地にも藩が警備に入っていたことは言うまでもない。
一向は無事通行。東照宮への被害は何事も無かったたようである。

この一件で、世相の不穏から御宮祭典が異例な警備体制となったのであった。

○ 元治2年(1865)3月13日、東照宮祭典に備え、岩松家から派遣された藤生友之助や広瀬敬之助の両取締役のもと、三仏堂北西の所に警備詰所建設の工事が雨のなか開始。
               
○ 元治2年(1865)3月14日、夕方、詰所完成。取締役、警備に要する武具や諸道具を運び込むよう命ずる。

○ 元治2年(1865)3月15日、早朝から弓・槍・鉄砲など用意。取締役の広瀬、伊勢崎藩の詰所に出頭し、指揮者の目代菊池武貞と会見。両者が協力し東照宮の警備をこれまで以上に厳しくしていくことを論議。

○ 元治2年(1865)3月16日、岩松満次郎の指示のもと、番頭(関根高之助・田中司)、番目付(金井肇・広瀬伝)、添番(藤生元太郎・茂木吉之進)、徒士(登沢恒吉・近藤庄吉・倉上源次郎・小暮銀蔵)、足軽4人と6人の仲間など合わせて20人の隊員が詰所に出勤。
            
○ 元治2年(1865)3月17日、世良田東照宮、東照公第二百五十回忌につき1ヵ月前の祭典。岩松満次郎の名代として、家臣の畑織之輔が若党と草履取りを従えて金二〇〇疋を東照宮へ奉納。


と、一部抜粋して記してみましたが、鉄砲までもが用意されるなど武装した者の厳重な警備の中の祭典が行われたのでした。
この時の「元治2年世良田東照宮 御神忌中御護衛に付き、取扱一件帳」が群馬大学付属図書館に所蔵されている。
2007年07月28日(土) No.16 (ものしり知識)

江戸時代東照宮周辺図─ 惴羌椶両緘崕蠅伐屡崕蝓



【‐緘崕蝓Ν下番所】

御宮上下番所は、御宮創建時に幕府により建てられた。江戸時代東照宮周辺図 愴つの門』項△任盻劼戮燭茲Δ法∧疹錣遼媛个篆緞匹稜ぬ魁祭典時や修復期間中の警護のための勤番所が設けられていた。

上番所・・・間口二間、奥行一間半。諸道具は、三ツ道具とう突棒(つくぼう)・刺股(さすまた)・袖搦(そでがらみ)、鳶口3本、棒10本が置かれていた。
下番所

何れも、川南(埼玉県深谷市)の12ヶ村、川南11ヶ村(群馬県太田市)と6ヶ村(群馬県伊勢崎市)が昼夜交代で出仕し御宮の警備についた。

神領内で火災が起きると、火の番は火消し道具を取って駆けつけた。火消し道具とは、大団扇のことで、6尺から7尺の長柄の先に表面を黒漆で染め、白字で記したものであったとのことである。この大団扇を使い、火の手に向けて数100人が一団となり、火勢を彼方へ扇ぎ返すという趣向であった。

御宮の修復期間中は更に番所は増え、自費にて1ヶ所5両ほどで仮に建設された。
○ 御宮鳥居南方・・・・間口三間、奥行一間
○ 御宮表門前・・・・・間口四間、奥行三間
○ 御宮仮殿前・・・・・間口二間、奥行一間半
○ 平塚材木揚場・・・・間口四間四方
○ 太鼓門前・・・・・・間口四間、奥行一間
○ 小屋場入り口・・・・間口一間四方
○ 材木置場の三仏堂

2007年07月27日(金) No.15 (ものしり知識)

太田かるたの誤記


歴史の解釈と判断というのは、難しいものです。本屋さんで並んでいる本やテレビ時代劇で放送されている内容というのは、必ずしも正しいものではありません。もちろん各市町村発行のものもそうです。全国の神社寺院、史跡等の表記においても、それが全て正しいものと認識せず、自ら調査研究していく必要があります。

本日は、『太田かるた』について述べさせてもらいます。

平成17年3月28日、当地新田郡尾島町世良田は太田市世良田町として市町村合併を致しました。
翌年11月に市民憲章の普及推進の一環として、太田市かるたというものが製作販売(525円)されております。

当サイトでも報告致しましたが、東照宮も『と』の読札として取り上げられました。
その後、説明文を見て驚かされました。なんと和暦が間違っているではありませんか。
東照宮の正遷宮は21年(1644)10月11日です。しかし、正保元年(1644)と明記されているのです。

これをお読みのたくさんの方は、おそらく単なるミスプリントであると感じるかと思いますが、この説明文に関しては一切に当宮が関わっていなかったことなのです。
当宮に校正依頼もなく、作成委員会がご担当されて、その方々の解釈のみで作成されていたものだったのです。

市民からは、この件の電話や来宮時でご指摘されて、大変困りました。

もちろん当宮のことでありますので市民推進課の方へご指摘させてもらい、増版の際には当宮校正の元に新たに作成させてもらうことをお願い致しましたので、次回製作時には正式なものが出来上がっているのであろうと期待しております。

ご迷惑おかけしましたこと心からお詫び申し上げます。この件は、また後日にこちらで報告させてもらいます。


2007年07月27日(金) No.14 (ものしり知識)

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