上野國総鎮守 総社神社

正一位護国霊験惣社大明神上野之國の総鎮守

このホームページは上野の國五百四十九社の総社である前橋市元総社町・上野総社神社の公式ホームページです。毎月1回の骨董市やご祈祷ご祈願、お祓い随時受付けております。

御祈祷受付:午前9時~午後4時 随時出張祭典、地鎮祭、神棚清祓、竣工式、神葬祭等   七五三展示会開催決定:6月8日(土)・9日(日)、6月22日(土)・23日(日)、7月27日(土)・28日(日)、8月24日(土)・25日(日)、9月7日(土)・8日(日)、28日(土)・29日(日)

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上野総社神社史


東国平定から国府の設置まで

東国平定 人皇第十代崇神天皇は、御所の中に天照大神をお祀りしてあったが、これは神威を穢すと思し召しになり大和の笠縫村の小高いところにお遷しして祀られた。また、国土の平定のため武勇の優れた皇族方を選んで北陸、東海、山陰の各地に派遣され、良民を苦しめる悪者を退治し、荒れ地や野山の開拓や植民を行われた。これを四道将軍と呼んでいる。なお、国家が良民を保護し安心して生活ができるようにしてやるための費用として男には「手末調」(現在の租税)を出させて国家組織の整備に尽くされた。また、天皇は皇子豊城入彦命を不安定であった東国平定のために派遣された。男の弓弭調としては毛皮など、女の手末調としては織物など
神社の起源 崇神天皇の四十八年三月皇子豊城入彦命は東国平定の命を奉じ、上野にお下りになられるや、神代の時代に国土の平定に貢献された経津主命の御武勇を敬慕され、軍神としてその御神霊を奉祀して御武運の長久を祈られ、また、経津主命の親神(ご両親)である磐筒女命の御二方をも合祀せられた。これが当社の始まりである。
蒼海明神の号 豊城入彦の子孫は、代々上毛野国君としてこの地に全盛を施し、当社を熱く崇敬されてきた。その後、人皇第二十七代安閑天皇の九年三月、上毛野国君小熊王は、社殿を改築して郷名に因んで蒼海明神と称えるようになった。
形名の伝説 人皇第二十九代天皇の九年に蝦夷が叛いたとき、上毛野君名は勅命を奉じて討伐に赴いたが、敵の重囲に陥り戦いは利あらず、もはやこれまでと討ち死にの覚悟をしたとき、その妻は敢然として夫を励まし、自らも剣を佩き次女達に命じて盛んに弓絃を打ちならさせたため、形名もにわかに勇気を出して陣頭にたって奮戦したので敵の重囲を破り蝦夷を退治することができた・・・と伝えられている。上州の嬶天下の諺もこうした古希の由来も一因ではないかと思われる。
国府の設置 大化改新の詔によって律令政治が行われるようになりそれまで地方を治めていた国造は廃止され、新たに大和朝廷から国司が任命され、政庁としてしての国府が置かれ、その下の各郡には郡司を置いて政治を行うようになった。国府には朝廷から任命された役人がいて国内の治安を守り、班田収授や徴税を行うなどの仕事をしていたが、上毛野国の国府は当時は下図のような位置に設置された物と推定される。国府は一辺が六丁から八丁の方形で、中央北部に国司のいる国衙が置かれ、その周囲に住居や倉庫が配置されていた。

上野の国から延喜式神明帳まで

上野の国

佐渡を入れて全国六十八カ国が小国、中国、上国、大国の四段階に区分されたとき上野野国は最初上国にはいっていたが、人皇第五十二代嵯峨天皇の弘仁二年に親王が治めるようになってから大国になった。こうして大国十四カ国に入ったことは

一、交通の要衝であったこと
二、山と平野を持つ豊かな自然環境であること
三、内陸にあるため災害の少ない安定した地域であること
四、大きな関東平野を東南に控えていること

以上の条件と、親王の任国となって上野野国の国府は益々重要な物となり東国の文化の中心となった。

上毛野国 人皇第四十二代文武天皇の大宝元年、大宝律令の制定により東国文化の中心で上毛野国は「毛」をのぞいて「上野国」と書くようになった。また呼び名も「かみつけぬのくに」から「かみつけのくに」そして次第に「こうづけのくに」に変わっていった。もともと毛は毛人と書いて蝦夷(えみし)と同義語にもちいられ、大和朝廷に反抗する異種族としてとらえられていることもあり、響きの悪い言葉であったため「毛」をのぞいた物と思われる。また延喜式巻第二十二部には「凡そ諸国部内の郡里等の名は二字を用いて嘉名をとれ」とある。
上野国分寺 天平十三年三月二十四日、人皇第四十五代聖武天皇が全国の国司に国分寺(僧寺と尼寺)を建立するよう詔(みことのり)が出され、更に天平十九年十一月に国分寺を早く建立するよう督促の詔が出された。上野野国国分寺がいつ建立されたかは明らかではないが、天平勝宝元年に碓氷郡石上部君(いそのかみべのきみ)と勢多郡の郡司上野野朝臣(かみつけぬのあそみ)の二人が国分寺建立への献上品によって従五位下の位を与えられていることから、このころに完成したのではないかと推定されている僧寺(金光明四天王護国寺)は、東大寺と同じ様式で伽藍の配置は次のようになっていたものと推定されている。尼寺(法華滅罪之寺)は、消失前の当社の西方十二丁付近(僧寺から東へ約三丁<およそ330メートル>)に建てられていたであろうと推定されている。このようにして巨費を投じて建立された国分寺は、国府と共に平安時代の末期に兵火により焼失した。
総社明神の由来

国分寺を完成させた当時の三代目国司大宅大国公(参考文献によると「大伴宿濔伯麻呂」)は、寄せる崇敬殊に篤く、旦に社殿に額づき夕に寺塔に詣でるを例とし、上野国治国の要諦としたと伝えられる。また、国司は国内各地の神社に幣束を捧げ、親しく巡拝していたが、人皇第五十六代清和天皇のころ国司は上野国内各社の神明帳を作り、国内十四郡に鎮座する総五百四十九社を勧請合祀し、当社を参詣することにより国内全部の神社を参詣したこととし巡拝奉幣の労を省いた。国内総五百四十九社を合祀したことにより総社と称え、社号を総社大明神と改称した。このとき国司より献納された額に「正一位護国霊験惣社大明神」とあり、これは今も当社の宝として宝物殿に納められている。また、この額は清和天皇の勅額で有ると言われている。

上野国内十四郡の各社を勧請合祀したのは、平安後期(1087~1184)で有ると書かれている本が大部分である。永仁六年(1298)に神明帳が神主・赤石中清によって書き写されていることからこれより以前であったことは間違いのないことである。

上野神明帳 国内の諸神を合祀したとき作られた神明帳の冒頭に「總五百四十九社勧請故当社大明神是当社之宝物也」・・・・・とある。このとき作られた神明帳はその後三回にわたって書き写されている。永仁六年十二月二十五日神主赤石中清正本を書き写すとあり、次に貞和四年三月二十九日・社司赤石春永仁六年の神明帳を再び書き写すついで、弘治三年二月二日神主赤石中喜貞和四年再写の神明帳を書き写すと記され是が現在に伝えられている神明帳である。なお、この神明帳は巻子(けんす)仕立てとなっていて、紙幅二十七糎、長さ四米で総社大明神から始まり相殿十祭神、摂社五百四十九社の祭神を郡別に記してある。昭和九年の陸軍特別大演習の御統監に行幸された天皇陛下の天覧を仰ぎ、畏くも幣帛料を下賜された。また、昭和四十九年には県の重要文化財に指定された。
延喜式神名帳 上野国内には式内社と呼ばれる神社は十二社あり、国司は幣帛として大社には糸三両、綿三両、小社には糸二両、綿二両が奉幣されていたが、当社に国内諸神を勧請合祀後は、国司は自ら奉幣にでむかないですむようになった。