東京ウォーキングマップ


10月28日(日)午前4:45〜5:00のTBSテレビ『東京ウォーキングマップ』で当宮が放送されました。
「未だ見ぬ街の庶民文化」と題して、散歩師の町田忍さん(庶民文化研究家/街頭浪漫研究家)が当地に訪れました。
「誰にでも行ったことはないけれど、気になる街があるはず…」との中島ひろ子さんのナレーションで旅が始まりました。
市内の新島湯、続いて旧例幣使道にある市営トイレ…町田さんは、「マーキング」とおっしゃっていた(笑)
そして、富士重工業群馬製作所本工場、スバル最中を扱う伊勢屋、小林自動車でスバル360を見るなどで番組の前半を終えた。



「…徳川氏発祥の地として有名。少し歩くと見えてきたのは徳川ゆかりの神社。そこは日光東照宮を勧請し、その奥社にあった建物を移築した由緒正しき世良田東照宮。国の重要文化財に指定された宝物を数多く保有している。その境内で町田さんがひっかかったのは…」




…当宮の上番所前にある番人の「顔ハメ」であった。さすが町田さん、見るところが違います(笑)



当宮の拝観もされ、境内にてやきそばを召し上がっておられました。

次に同市徳川町にある満徳寺跡(縁切り寺)の資料館内にある「縁切り・縁結び厠」で祈願。
ここではマーキングはできません。  実は…このトイレでマーキングされたことがある方がいるとか?いないとか? これ以上は、お教えできません(笑)

以上、15分という短い番組ではありましたが、町田さんの個性溢れる散歩に毎週視聴したくなる面白い番組でありました。

その他、番組内で新たに完成した太田駅をバックに「個性も何にも無い太田駅・・・」との発言に笑止。
また、散歩途中で町田さんが発見した「田んぼにカカシ代わりに置かれたヘアカット練習用の顔マネキン」でありますが… これは当地の人間でもあまり見かけませんよ。 あれでは、鳥避けならぬ人避けです(笑)
そして、最後の「今日のおみやげ」で紹介されておりましたが、太田市はやきそばの街なのだそうだ。いったい、いつからなったのであろうか? 勉強になりました。



2007年10月29日(月) No.46 (ものしり知識)

『御宮御神田』神領用水の石橋2


中島藤三郎の言う「新町(現太田市世良田町字新町)の豪家茂木友右衛門が日光例幣使道の三枚橋と他二ヶ所に橋を架け替えた」との記述。 
実は他にも、御宮別当寺であった長楽寺三仏堂の境内に建立されている馬頭観音供養塔には「アーンク 南無大日如来 南無馬頭観世音菩薩 奉納 四国西国 坂東秩父 巡礼供養 寛政四年 壬 子 三月吉日 石橋五ヶ所 上州新田郡世良田 御神領 茂木友左エ門 従日光駅路小角田前 御神領移此処者也」と記されている。

この友右衛門は、石橋だけではなく、寺中万像庵の再築や観音堂の建築も実費で行っている。何故に豪富となったかというと、一説には、ある時に金銀財宝とともに女の首が入った四斗樽が届き、その女の追福のために巨額な金銭を仏具等に喜捨したのだと伝えられる。
観音堂は、三間四面の小堂漆塗りの瓦屋根建物。堂内には百観音の木造が安置されていたそうであるが、明治維新後に友右衛門の一族の建次というものが、財産の傾きで居宅が無くなり、同寺に乞うて観音堂を貰いうけて自分の宅地に移して居住したと伝えられる。

早速、この三ヶ所(三枚橋と他二ヶ所)と五ヶ所の石橋の違いを現地に足を運び調査を試みてみた。


【箇所の石橋】


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【ゲ媾蠅寮亢供

,了蝶爾魎泙瓩襪罰里に現在も五ヶ所の石橋が残されている。

しかし些か疑問に感じている。昨日のブログにある【 銑ジ什漾確認できる石橋の位置(Map Fan)】http://www.net-you.com/toshogu/sfs6_diary/sfs6_diary/44_2.jpgをご覧になって頂きたい。
,亮┐靴深个瓩瞭擦両部分の箇所が現在も残る例幣使道である。例幣使道はその道が下まで延び、群馬県道312号太田境東線辺りを通行していたのであるが、◆銑イ琉銘屬砲△觚什澆寮亢彊銘屬販稱昌汎擦箸異なっている。
これだけの石橋が例幣使道以外の農道で使用されていたとは考えにくい。「中山道例幣使道分間延絵図」では、例幣使道沿い五ヶ所に石橋があったことが確認できる。
ところが明治9年(1876)10月に書かれた「小角田地租改正図」では、2ヶ所が例幣使道沿いで確認されるものの、その他の橋は道沿いから少し離れた場所での確認となっている。

定かではないが、幕府崩壊の混乱した時代に田畑や民家の位置、農道も変わることで移動されたのではないかと推測する。,龍兇僕僂い蕕譴神个全て揃っているのか、◆銑イ実物の橋を解体後に同じように組み合わせられたものなのかは分からない。今後、専門家の調査によって解明されることを願っている。

2007年10月26日(金) No.45 (ものしり知識)

『御宮御神田』神領用水の石橋1


東照宮神領田絵図
http://www.net-you.com/toshogu/shinryouden.htmlの製作にあたって、様々な参考文献を元に復元させていただいた。その中に「長楽寺懐往襍談/茂木高十郎」がある。これは昭和3年(1928)に完成されたが、刊行されてはいない。その当時、茂木高十郎氏(53歳)が旧御神領の名主の中島藤三郎(89歳)に聞いた話が大部分であるとされている。中島藤三郎は、天保10年(1839)生まれであり、江戸から明治を生きた方である。東照宮文書にも中島藤三郎の名が見えるので、余談であるが記しておく。

● 明治14年(1881)、世良田東照宮総代を世良田村(中島藤三郎・山藤喜三郎)、徳川郷(山鹿安二郎)、上江田村(坂庭新平)、下田中(亀井政太郎)、高尾村(高田円蔵)、小角田村(高柳小四郎・高柳孫三郎・高柳唯七)、西今井村(茂木伝七)、上矢島村(羽鳥保蔵)、花香塚村(正田直平)が勤める。

旧新田庄小角田村は、日光例幣使道が東西に走る村である。小角田の例幣使道は、群馬県道312号太田境東線と国道354バイパス工事などの整備事業により、現在は残念ながら数メートル残っているだけである。
「長楽寺懐往襍談」によると、江戸時代に「新町(現太田市世良田町字新町)の豪家茂木友右衛門が日光例幣使道の三枚橋と他二ヶ所に橋を架け替えた」という記述が出てくる。

          
  【東照宮神領田絵図/三枚橋石橋の位置】

御宮御神田は、東照宮神領田絵図にある小角田地区以外にも、三枚橋の周辺に南北数町に跨っていた。
三枚橋側には三軒屋と称される三軒の家があり、昭和3年時には一軒もなかったそうである。

          
 【 銑ジ什漾確認できる石橋の位置(Map Fan)】

_媾蠅陵0譟⊃凜瓠璽肇觧弔詁光例幣使道の脇に、石橋の残骸が積み上げられている。地元の方の話によると、道路整備により石橋のあった用水路には別のコンクリート橋が架けられたそうで、行き場を無くして畑の角に放置してあるといった状態である。

          
       【_媾蠅諒置された石橋残骸】

しかし、上記写真でもお分かりになって頂けると思うが、大理石を加工した立派な石橋であったと想像できる。
四つの四角い切断面は、水の塞きに使用するために加工された後である。
ここには、他にも石橋を架ける際に土台として用いられた石垣もそのまま残されております。

江戸時代に製作された大理石の石橋が、このように無残に放置されている状態にご覧の方々も心配なされることでありましょう。当宮の方で太田市の文化財保護課への保護要請のご連絡はさせて頂きました。
再現成るのであれば是非に見てみたいものである。

後日、その他の確認を取れた石橋を報告致します。




2007年10月25日(木) No.44 (ものしり知識)

『御宮御神田』⊃昔了


      

         【神領札】

世良田東照宮奉祀にあたり、将軍家は神領内を「守護不入、殺生禁断」の地として保護した。
「守護不入」は、訴訟刑罰等の権力を持った役人であっても領内に於いてはその職権を行使することは出来ない。神領内は神領目代の菊池家がその取締りを担当する。
「殺生禁断」は、神領内での鳥・獣・魚などの狩猟を禁ずることである。

神領田(現 太田市小角田町)の三枚橋東の石田川の川岸とそれより二町西の道北の場所に、高さ7メートル・幅60センチ同文の牓示杭2本が設けられ、札には「これよりどの方 御神領 殺生禁断」と告示され、その大きさから遠方からも確認することができたという。
また、御宮御神領入り口の4箇所にも神領札が設けられていた。(詳しくは、7月4日水曜日のブログ『江戸時代東照宮周辺図⊃昔了1.2』をご覧下さい。)
2007年10月24日(水) No.43 (ものしり知識)

『御宮御神田』仝羌楔羶昔陵竸


      

【御宮神領田図 http://www.net-you.com/toshogu/shinryouden.html

『御宮御神領用水』は、東武伊勢崎線剛史駅の東南に流れる粕川から取水し、伊勢崎線境駅の前を流れ、世良田駅の南に沿って世良田の田畑へ流れている用水である。幕府崩壊後は、「佐波新田用水」と称されている。

      
【剛志駅東南の粕川からの取水位置(Map Fan)】

慶長13年(1608)、用水路の整備や修復、新堀の開削が実施。寛永21年(1644)、世良田に御宮が御鎮座され、御神領二百石の内七十六石が神領田として寄進されると、御宮神領田への水の引き入れとあって『御宮御神領用水』と称されるようになる。

      
【早川に架けられた千貫樋の位置(Map Fan)】

この用水路は、境から世良田への送水の際に早川という川を越えて水を横断させなければならず、「千貫樋」と言われる大型な掛渡井を架していた。

千貫樋の架け替えや修繕は、江戸初期までは幕府により成されている。

元禄12年(1699)、幕府により御神領用水の千貫樋(長27間・高3尺)の掛替え成る。(代官竹村若左エ門)
正徳 4年(1714)、幕府により御神領用水の千貫樋(横6尺・雨除付)の掛替え成る。(代官林甚五右エ門)
享保11年(1726)、幕府により御神領用水の千貫樋の修繕成る。(代官池田新兵衛)
享保14年(1729)、幕府により御神領用水の千貫樋(長24間・高2尺・横4尺)の掛替え成る。(代官池田新兵衛)
元文 2年(1737)、幕府により御神領用水の千貫樋の掛替え成る。(代官石原半衛門)
宝暦12年(1762)、幕府により御神領用水の千貫樋の掛替え成る。(代官伊奈半左エ門)
明和 3年(1766)、幕府により御神領用水の千貫樋の掛替え成る。(代官飯塚伊兵衛)
安永 2年(1773)、御宮別当寺払い下げ木材により御神領用水の千貫樋の掛替え成る。(代官飯塚伊兵衛)
安永 9年(1780)、御宮別当寺払い下げ木材により御神領用水の千貫樋の修繕成る。(代官遠藤兵右エ門)
天明 5年(1785)、御宮別当寺払い下げ木材により御神領用水の千貫樋の修繕成る。(代官遠藤兵右エ門)
寛政 4年(1792)、御宮別当寺払い下げ木材により御神領用水の千貫樋の修繕成る。(代官蓑笠之助)
寛政12年(1800)、御宮別当寺払い下げ木材により御神領用水の千貫樋の修繕成る。(代官野口辰之助)
文化 4年(1807)、御宮別当寺払い下げ木材により御神領用水の千貫樋の修繕成る。(代官山田茂左エ門)

江戸時代、『御宮御神領用水』によって神領田ほか当地(世良田・出塚・粕川)の水田百五十町歩を灌漑し、米作りの生産を支えてきた。




2007年10月22日(月) No.42 (ものしり知識)

テレビ放映




9月20日(木)、庶民文化研究家/街頭浪漫研究家である町田忍さんが来宮されました。
町田さんの公式サイトは、こちらをご覧下さい。http://www.edo.net/machida/

当宮に来宮されたのは、TBSテレビ『東京ウォーキングマップ』の番組収録でした。
放送日時は、今月の28日(日)午前4:45〜5:00。
東京ウォーキングマップ製作会社の公式サイトは、こちらをご覧下さい。http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/9848/

放送後に当ブログで再度、内容を報告させて頂きます。
2007年10月18日(木) No.41 (ものしり知識)

世良田東照宮のミステリーな位置


静岡の久能山東照宮の社殿は、徳川氏発祥の地である先祖の地(世良田東照宮)を通り、家康公が鎮まる日光東照宮を向けて造営されていることは、多くの方が承知されていることであろう。

江戸城内西丸北東部の小丘高地の紅葉山に勧請された紅葉山東照宮は、二代将軍秀忠公が日常参拝ができるように造営されたものである。
実はこの紅葉山東照宮の社殿の向きも当地を向けられて造営されていたことは、未だ知らない方も多いと思える。

    

【家康公御遺言 http://www.net-you.com/toshogu/yurai.html

以前、某氏より紅葉山東照宮が世良田東照宮を向けて建立されていたらしいとの話をお聞きしたことがある。
そこで紅葉山東照宮の建立方向の確認をすると共に、久能山から当地を通り日光を指すのであれば紅葉山が当地を通り何所かを指しているであろうという仮説のもとに資料を広げて調査を行ったことがあった。
驚くことに、群馬県赤城村を示していることが分かったのである。

赤城村とは、某番組によって数年に渡り騒がれた埋蔵金伝説の地である。この地は、明治23年に水野智義が古井戸から徳川家康の黄金像を発見したことから現在に至る経緯があり、番組中では埋蔵金は発見されずとも地中に深く掘られた洞窟は明らかになった場所である。

水野家現当主の方とお電話でこの件をお話したことがあったが、何かを意味するものであることは間違いないであろうとの互いの見解であった。

    

また上記の家康公御遺言でも述べているが、紅葉山・世良田・日光が二等辺三角形にもなっている。
日光東照宮表門から表参道に向けての線は江戸をも指している。

社殿配置と様々な線からなるこのミステリー、多くの方々がご調査し報告されてくれることを期待致しております。





2007年10月16日(火) No.40 (ものしり知識)

テレビドラマ主人公と世良田東照宮


水戸黄門が当宮にご来宮された記事を紹介しましたが、他にもテレビ時代劇で知られる有名人が御宮に関係している。

大岡越前守忠相は、TBS系放送「江戸南町奉行 大岡忠相」やテレビ朝日系放送の「名奉行 大岡越前」等で有名である。大岡忠相といえば、山田奉行所にて伊勢の神宮の警備・遷宮の監督・伊勢国幕府領の支配等を務めていた。

  

  【南町奉行所推定図】
   (参照:江戸生活図鑑)

享保元年(1716)8月13日に徳川吉宗公が八代将軍に補任した翌年に、大岡忠相は江戸町奉行に抜擢。町奉行に赴任した2月3日に越前守を名乗り、享保4年(1719)に北町奉行所が南町奉行所に改称。江戸の市政・司法・治安に活躍するとともに名奉行・政治家として人々から尊敬された人物である。

元文元年(1736)に寺社奉行になってからは「暴れん坊 将軍」と共に御宮修復に携わっている。

●寛保3年(1743)4月16日、寺社奉行大岡越前守忠相、御宮修復の見分役を手代児島孫七郎と坂口平六に命じ、諸役人32名程が御宮に来る。6月8日、見分終えて諸役人帰る。


2007年10月15日(月) No.39 (ものしり知識)

金幣御守


当宮で授与される御守りのなかに、『東照宮金幣』という御守りがあります。
本殿に奉幣された金色の幣束(へいそく)を刻み奉書紙に包んだ御守りであり、初詣の元旦から5日までの新年特別祈祷には御札と共に授与されている。

      

       【東照宮金幣御守】

※ 初詣祈祷の詳細はこちらをご覧下さい。
http://www.net-you.com/toshogu/hachiman/index.html

元和3年(1617)、日光東照宮に家康公がお祀りされると、朝廷は勅使を遣わされ奉幣。元和8年(1622)、寛永5年(1628)、寛永9年(1629)、寛永13年(1636)、寛永17年(1640)の御神忌に宣命使を遣わされ奉幣されている。
正保3年(1646)3月10日には参議の持明院基定が臨時奉幣使として日光東照宮へ派遣。以後、翌年4月17日から慶応3年(1867)までの222年間、毎年絶えることなく日光東照宮へ御金幣を奉納されたのである。
前年度に奉幣された御金幣は下げられ、それを小さく刻んで奉書紙に包み、勅使によって一部の者に頒布されました。この御守りを「東照宮金幣」と称し、当時の人々は有難い『金幣御守』として享けたと云われています。

       
        【発見された金幣守】

当宮にはこの『金幣御守』が残されている。現宝物館である建物は、江戸時代には御供所(神饌の調理や直会の場)として幕府により修繕が執り行われてきた。その天井棟木の上から発見されたものである。

       
   【日光東照宮より移された御金幣】

日光東照宮より奥社拝殿等が移遷された際、神宝類と共に『御金幣』も移されている。



2007年10月10日(水) No.38 (ものしり知識)

七五三準備


10月になり当宮も七五三詣の祈祷準備が始まった。

      

   【殿内に置かれた七五三用碁盤】

平安中期より天皇家において執り行われている『碁盤』を使用した儀式には、京都鴨川の青石が持ちいれられている。
碁盤上に置かれた鴨川青石2個を踏みつけ、「えいっ」と声をあげて南側へ飛び降りる。
石を踏むのは罪穢れを取り除く禊(みそぎ)を意味し、飛び降りるのは大地にしっかりと足を付ける意味が込められている。

浩宮徳仁皇太子殿下は、明治神宮の清正の井戸の石を代わりにご使用になられている。

      
       【碁盤上の鴨川青石】
 
数ヶ月前、当宮の崇敬者の方から京都鴨川の青石が届けられました。大変貴重な石であるということで誠に有難く感謝致しております。
また当宮での七五三祈祷で実際に使用して頂きたいとのことで、子供の成長の感謝と健康をご祈念するために、たくさんの子供達に青石を踏んで頂ければ幸いであります。

注意) 碁盤上からの飛び降りは、硬くお断りさせて頂きます。


当宮の七五三祈祷は、ホームページ上の『七五三』http://www.net-you.com/toshogu/shichigosan.htmlと『ものしり知識8月12日』http://www.net-you.com/toshogu/sfs6_diary/sfs6_diary/200708.htmlの記事をご参照下さい。
2007年10月03日(水) No.37 (ものしり知識)