紅葉の季節




『東照宮ものしり知識』を開設して約半年となるが、閲覧者の数は既に2100件を超えている。週一度か二度の更新で誠に申し訳なく思っております。

この季節ともなると紅葉を楽しむ方もおられると思うが、神域の杜の清掃は一年を通じて一番大変な時期となる。365日毎日のことであるとは故、桜の葉から始まり、ハナミズキ、クス、マツ、スギ、イチョウ、カエデ、クヌギ、クス・・・・・と年内一杯は、ありとあらゆる樹木の落ち葉との格闘の日々。
観光シーズンや初詣準備も重なり、思う様にブログの更新が出来ないといった状況である。

社務の許す限り更新はしたいつもりでおりますが、これより年末年始の季節は、滞ることとなりますがご了承下さい。
2007年11月29日(木) No.53 (ものしり知識)

御宮近隣の歴史散歩 Α擲運稲荷社】


未だに調査報告が成されない社の第六段は、「世良田五社稲荷」の最後の一社である。

そもそもこの「世良田五社稲荷」の存在を知ったのは、江戸時代東照宮周辺図
http://www.net-you.com/toshogu/edozu.htmlに記載されている社で、未だ調査報告がなかったものを現地調査してみようということからであった。
周辺図にある稲荷社を調査するなか、当方も現在の社の所有者にお話をお伺いをして初めて知ったことである。
所有者でさえも他の稲荷社の全てを知る方も少なく、江戸時代は信仰があったものの、その存在すら忘れ去られつつある「世良田五社稲荷」なのである。

稲荷社四社までは比較的にすんなりと調査できたものの、残すところの一社が断定できない。実は、これまでの所有者に伺ったところ残りの一社は様々な箇所を言われていたのである。

このブログを書く中、江戸時代の鎮座位置を確認するため、弘化二年(1845)の「上毛新田世良田略絵図」を引用した。再度、絵図全体に目を通すと、「いなり」の文字がある箇所がもう一つあるのである。
それは、現在当宮境内に移遷される前の『開運稲荷社』である。

              
【上毛新田世良田略絵図の開運稲荷社】

絵図内では、そのほかに「いなり」の文字は一切確認は出来ないのである。この『開運稲荷社』の由緒からしても、この稲荷社を除いての「世良田五社稲荷」は考えにくい。

『開運稲荷社』については当ブログの2007年06月28日(木)No.4【開運稲荷社(かいうんいなりしゃ)】http://www.net-you.com/toshogu/sfs6_diary/sfs6_diary/200706.htmlの項で記しているので、そちらをご確認頂きたい。

          
   【世良田東照宮境内社の開運稲荷社】

絵図上の稲荷社の現地に調査に行ってみた。確か、その地だけは木々に覆われて周辺よりも幾分小高くなっていた記憶がある。しかし、残念ながら現在は周りの墓地と風景が変わらぬようにすっかりと無くなり、その地は墓地となっていた。どうやら平成初年に開拓されていたようである。こういった由緒ある地が当地のみならず、他の地でも知らずと忘れ去られて跡形も無くなることに寂しく思えてくる。

明治25年(1892)5月2日に、そもそもあった当宮境内社の「稲荷社」へ移遷合祀することで、絵図上の箇所には建物も無くなり、『開運稲荷社』があったことすら忘れさられたのではと推測する。
五社目を伺う中、この箇所の近くの民家にあるとの話も出てきた。おそらく「上毛新田世良田略絵図」を見たことの有る者が「開運稲荷社」の由緒を知らずに間違って伝えている故のことであろう。

「上毛新田世良田略絵図」に記される「世良田五社稲荷」は、『天徳寺稲荷社』・『守下稲荷社』・『津久井稲荷社』・『陣屋稲荷社』、そして現在当宮境内に鎮座する『開運稲荷社』の五社であるとして稲荷社の調査を終了することにする。
2007年11月20日(火) No.52 (ものしり知識)

御宮近隣の歴史散歩 ァ攷慍旭隹拏辧


未だに調査報告が成されない社の第五段は、『陣屋稲荷社』である。
「世良田五社稲荷」の四社目の現地調査報告となる。
こちらの稲荷社も邸内にあるため、許可無く立ち入りは出来ません。

      

【上毛新田世良田略絵図の陣屋稲荷社】

上記,蓮◆11月07日(水) No.48」で紹介しました『天徳寺稲荷社』。
△蓮◆11月09日(金)No.49」で紹介しました『守下稲荷社』となります。

は世良田略絵図に記された『陣屋稲荷社』である。この一区画は陣屋と呼ばれていた地である。
稲荷社の西北には、土居(集落や建物などの周囲に防御のために巡らした土塁)の跡が現在も残されており、敵の侵入を防ぐために地面に掘られた塹壕の跡とも思えるものもある。

    
      【現在の土居跡】

実は、この地は慶長年間(1596〜1614)より寛文3年(1663)まで、岩松守純、岩松豊純、岩松秀純が居住していた地である。
また、世良田東照宮の造営に尽力した老中阿部豊後守忠秋も寛永3年(1626)から元禄11年(1698)まで当地を領し、ここに陣屋を置いたという。両者が同一区画内を陣屋としていたのかは不明である。

        
        【現在の陣屋稲荷社と内部の社殿】

現在の陣屋稲荷社は近年になって再建されたものである。しかし、建設した大工が当時の社を原寸通りに再現したものであるとのことで、内部には当時のものと思われる同寸法の格子扉等もそのまま保存されている。
 
これまでの『守下稲荷社』と『津久井稲荷社』同様に外陣内陣となる社であり、内陣の社は正面蛙股内には雲と稲荷宝珠の彫刻、向拝柱には獏の彫刻がなされている。漠の彫刻は三社とも見受けられた。

蛙股・漠の飾り・斗栱の三箇所は漆拭きの跡が残されており、この部分だけは創建当初の物であろう。他は所々修繕が成された箇所が伺える。

また外陣内部には格子扉の他に再建前の社の壁一部が残されており、「御昇神 正一位稲荷大明神 宝暦四年申戌歳二月初卯 ○○○之」と記されている。
「御昇神」とは、この地に鎮座したことと読み取れるが、ここでいうものが果たしてそうなのか判断するのは難しく思える。

『守下稲荷社』に残される文書といい、宝暦四年(1754)が何かを示すものであろう。ともかく同年の記述を確認することができた。








2007年11月19日(月) No.51 (ものしり知識)

御宮近隣の歴史散歩 ぁ敖典廾羂隹拏辧


未だに調査報告が成されない社の第四段は、『津久井稲荷社』である。
「世良田五社稲荷」の三社目の現地調査報告となる。
こちらの稲荷社も邸内にあるため、許可無く立ち入りは出来ません。
              
     

【上毛新田世良田略絵図の稲荷社跡】

上記版画の絵図の○印の箇所に「いなり」と「氏神」の記述がある。両文字の間にはカナ文字で「ソノイ」とも読み取れる。おそらく、所有者が津久井氏のため「ツクイ」とのカナ文字が本来である可能性は高いと思われる。

弘化二年(1845)の「上毛新田世良田略絵図」上では早川沿いに鎮座しているようであるが、現在はこの箇所には稲荷社は確認できない。
絵からの判断では難しいものではあるが、現在も同地の箇所は津久井家の畑となっている。その周囲は全てが田んぼとなっており、この箇所に鎮座されていたのではと想像することができる。

    
   【現在の津久井家邸内に鎮座する稲荷社】

現在は社の所有者邸内に鎮座されている。朱塗りの鳥居が設けられ、守下稲荷社同様に外陣と内陣と成る造りとなっている。
外陣内部には「昭和七年三月八日 稲荷社殿改築 当主 津久井藤四郎」との棟札が見受けられる。この時に移遷されたのであろか定かではない。
内陣の御社は二社とも朱塗りとなっており、虹梁部分も凝った作りである。

近隣者の話によれば「へいしろう稲荷」との通称名もある。昭和七年の当主の名である「とうしろう」の勘違いではとも思えるが、それ以前に「へいしろう」と言う名の先祖がおられた可能性もある。この辺りは新たな情報もあるかもしれないので、記事修正として再度ここで書き換えようかと思う。

     
【津久井家稲荷社の裏に鎮座する石祠】

調査を終え、再度正面から稲荷社を拝むと裏側に石の祠があることに気付いた。許可を頂き確認をしてみた。
現稲荷社との関係は一切不明であるが、立派な石祠が三社、鎮座している。手前の石祠の正面窓の両側には何やら文字が一行づつ彫られていたようである。右側頭に「奉」文字がなんとか読めるが、残念ながらその他は荒廃して読み取ることは出来なかった。
昭和53年発行された「尾島町の石造遺物」にも記載されていない。編集委員会も気が付かなかったのか、それとも削除されたのか分からないが、窓枠といい、屋根といい、随分と立派な社であるのに解明されていないことが誠に残念でならない。





 
2007年11月12日(月) No.50 (ものしり知識)

御宮近隣の歴史散歩 【守下稲荷社】


         

   【東照宮周辺図 守下稲荷社の位置】

未だに調査報告が成されない社の第三段は、『守下(もりした)稲荷社』である。
やはり、こちらの稲荷社も邸内にあるため、許可無く立ち入りは出来ません。

今回、この稲荷社の調査にあたり多くの情報を得ることが出来ました。やはり歴史の調査は現地調査に限ります。

        
           【現在の守下稲荷社】

社の虹梁部分は若葉と雲の彫刻があり、現在も漆拭きであったことが確認できる。

        
        【守下稲荷社の内部】

内部には稲荷社の御社が祀られている。外側の社を外陣、御社を内陣としているようである。

社の所有者の先祖は、「上野国新田郡世良田郷祇園殿記」や「上野国新田祇園牛頭略縁起」などにも名前が見受けられ、当地の鎮守社の御神像を津島神社(愛知県津島市)から遷座させた一族として由緒ある旧家といえる。
また、「宝暦四年甲戌年八月十五日 吉田二位門人 朝倉大和守藤原正勝」による守下稲荷社に関する文書の写し巻物を保有している。
その他、國分寺という寺にもこの稲荷社に纏わる資料があるとのことであるが当方での確認はしていない。

稲荷社二社目の調査によって、どうやら旧家の邸内社としての勧請によるものではないかと想像する。但し、近隣の者の信仰もあつく、江戸期には参拝者も多くあったものと思われる。

調査経由をお話したところ、新たな情報をお聞かせ頂いた。
当地には「五社稲荷」と呼ばれる5つの稲荷社が古くより祀られているとのことでした。前回に報告した「天徳寺稲荷社」もその一つに数えられるとのことでした。


この他三社は、「東照宮周辺図」の範囲以外の地域に広がるようであるが、ここまで来ると調査継続せねばならないであろう。地元郷土史家によって纏めて頂けると有難いのであるが…社務の許す限り、当方で現地調査をし報告しようかと思う。
2007年11月09日(金) No.49 (ものしり知識)

御宮近隣の歴史散歩 ◆敕憩岨稲荷社】


        

【東照宮周辺図 天徳寺稲荷社の位置】

未だに調査報告が成されない社の第二段は、『天徳寺稲荷社』である。
現太田市世良田町内に鎮座するこの社は、民家の庭先にあるため、許可無く立ち入りは出来ません。

弘化二年(1845)の「世良田郷絵図」「上毛新田世良田略絵図」で確認が取れるものの、その由緒は不明といっても良いであろう。とにかく資料がないのである。

地元の方に聞くところ、現在の建物は昭和30年(1955)以降に社の近隣者によって再建されたものであるとのこと。社の虹梁部分は若葉の彫刻が成されているが、材木の質は良いものではなく、その彫りも素人の彫りであることが分かる。

     
        【現在の天徳寺稲荷社】  

当地鎮守社に御霊は移遷されたとのことであるが、崩れかけた建物の内部を覗くと、御鏡や御幣の棒などが瓦や壁などの下敷きになりながらも確認することが出来る。御鏡の裏面には文字の確認は取れず、鏡台は些か新しく思えた。

また、この社地には明治時代ころより昭和中期まで御岳教の先達が居住していたとのことで、社殿内で火を用いての祈祷が行われていたとのことである。内部に残る大きな火鉢のようなものがそれに使われたものであるかは定かではない。

そもそもは江戸時代、またそれ以前は僧侶により祀られていたものであり、御岳信仰とともに先達により引き継がれたのではと想像する。




2007年11月07日(水) No.48 (ものしり知識)

御宮近隣の歴史散歩  敞幡社】


江戸時代東照宮周辺図
http://www.net-you.com/toshogu/edozu.html で確認がとれる、近隣の史跡を調査してみようかと前々から考えていた。
これまでも旧尾島町教育委員会や文化協会などにより、調査書などの発行もあり史跡などの文化や歴史は随分と報告が成されている。しかし、それらでさえも掲載されぬままの小さな社や石碑なども実際とのところ数多く残されている。
「東照宮ものしり知識」とは異なるものとなるが、江戸時代の御宮近隣の状況確認として、資料化されていないものを記すこととする。

    
【東照宮周辺図 八幡社の位置】

地元のお年寄りにお聞きした話によると、古くよりこの地に鎮座する由緒ある「八幡さま」とのことで、昭和中期までは小高い山の上に社が鎮座しており、周囲は木々に覆われていた。江戸時代は社前にある道を中瀬江戸道といい、その道から小高い山まで10メートル程の参道もあったそうである。
昭和22年(1947)9月のカスリーン台風の時、当地は利根川の氾濫により床上浸水にもなる状況であった。八幡社近隣で牛を飼う者が、この八幡の小高い山へ牛を避難させたとのことである。少なくともそれ以前は山もあったようである。現在も「はちまんやま」と名が残っている。

           
【現在の太田市世良田町字南八に鎮座する八幡社】

現在残る八幡社は、実際の場所より南に数メートル程移動され、小高い山や木々、参道は無くなっており、畑の隅にひっそりと勧請されている。
数年前に私が調査散策に訪れた時は石燈籠が崩れていたが、祠に下げられた紙垂などを見ると、地域の方が個人的にお祀りをされているようである。
現在、祠と道祖神の石碑、石燈籠が残されている。道祖神の石碑は、道路整備時に近くの道より移されたものであろう。石燈籠は、おそらく当時のままのものではないであろう。竿以外は別の石を乗せたものと思われる。竿には『八幡宮御宝前 安永四未八月吉日 上野国新田郡世良田村』と、奉納期日が示されている。

2007年11月01日(木) No.47 (ものしり知識)